原初のキス

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2012年 11月 06日

ことば

なにかものを創るときに自分の中でことばを使わないというのは、ものすごく重要なことではないかと思う。おそらくそれが小説だとしたって、同じことだ。

スマナサーラさんという仏教の有名なお坊さんが、ことばを使って考えるとすごく遅いんですよ、という意味のことを言っていらしたかと思うが、自分の実感としてもそれはある。既に知っている、わかっている、それが故に信頼していいことに関しても、ことばは限りなく干渉する。

というのがことばのある一面。もちろん自分は、ことばに対して全面的に懐疑心や警戒心を持っている訳ではないけどね。要は使いようだ。念のため。
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by zelan | 2012-11-06 19:56
2012年 07月 21日

今日の感心

レストランで食事をしていたら、近くのテーブルの側に立って遊んでいた5歳位の姉妹が、「いってきまーす」「いってらっしゃーい」と元気よく言い合って、結局ふたりとも、すなわちいってらっしゃいのセリフの担当者も、レストランの外の方に(と言ってもビルの中だけど)、走っていってしまった。

「いってらっしゃーい」と言った直後に自らいってしまうというのは、言葉がもたらす制約から未だ自由であるということだ。

意識的であるか否かはともかくとして、かなりすばらしいと言える状態のひとつであると、感心。
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by zelan | 2012-07-21 22:58
2012年 02月 22日

メモ

「感情は暴君。では感覚は?」という自分のメモ書きをノートに見つけたが、いつ、どうして書いたかもわからない。
それなりに含蓄のある言葉(問いかけ)のように思えないでもないけれど。
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by zelan | 2012-02-22 21:56
2011年 02月 09日

わけられない

「身長」と「体重」というものがありそれぞれ個別に認識することはできるものの(というか、個別に認識したからこそそう名づけえたしもって計測可能にもなったのかもしれないが)実際のありようとしては完全に一体化しているように(ひとりの人間を身長と体重にはわけられないから・・)、作品に「精度」と「コンセプト」という軸が(軸はそれだけでないにしても)あるとすれば、これらは別々に認識はできるが結局のところ、わけられないのだ、ということをふと考えた。

(この文はかっこが多すぎるけど、頭の中で考えてるときは一直線で一瞬。ということは、人は文で考えてるような気がするけど、実際はそうでもない、ということらしい。)
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by zelan | 2011-02-09 21:44
2011年 01月 10日

言葉

言葉というものを自分は基本あまり信用していないところがある。言葉で表現できることはたかがしれており、その一方で方向づける力があまりに大きい。

でも、言葉がなければ、変わらないこともある。
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by zelan | 2011-01-10 23:03
2010年 12月 17日

ことば

以前美術のセミナーに通い始めた頃、自分の制作物のことを「作品」と呼ぶのが恥ずかしくて、代わりに「つくったもの」という言葉をよく使っていた。次回もつくったものを持ってきます、とか。
今でも、自分であれ人であれ、「作品」と言ったり聞いたりするとちょっと変な気がする。
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by zelan | 2010-12-17 00:17
2010年 11月 30日

勉強

前にも書いたけれど、「勉強しなければ」と当たり前のように言うと、勉強しなくていい、むしろしてはいけない、と言ってくださる方々がいる。
一方、勉強はだいじだよ、と言ってくれる人もいる。すごく勉強している人々で、その結果もあって(それだけではないけれど)自分が尊敬している人たち。
その人が経験から、ほんとうの言葉として言ってくれているのであれば、いずれの言葉もともに貴い。
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by zelan | 2010-11-30 17:33
2010年 09月 24日

手と頭

手(実行)と頭(企図)というのは常にすっごくずれている。
そのずれを埋めるのが技術だったりするのだが、その技術を実際に得るためには手の力が不可欠だ。かつ、その過程において、手の発端としてのみならず、継続的に頭にも関与させること。

という訳で、極端な言い方をすれば、ただ語られているだけのことなんて、それ自体としては、信用しない。言葉は頭の出先機能で、その言葉に基づいて実際に生み出されたもの、生み出されつつあるものとセットにして検証するしか、それがほんとうであるかどうかを、判断することは、できない。
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by zelan | 2010-09-24 00:06
2010年 06月 24日

2010年6月24日 言葉、イメージ、感覚

ものすごく気が散りやすいたちで、ある意味それに対抗するために、ものを創ったりしているのである。
例えば「東急ストア」という言葉を聞いたり考えたりすると、フロアの様子、店員の方々のたち働く様子まで「見えて」しまって、うっとおしいことこの上ない。
だいたい、現実がこの通りとは限らないし、いやむしろ細部にわたっては絶対に違うはず。ということはつまり、想像したとたんに、現実はその通りではありえないという事実を、創りだしているようなものだ。

言葉が言葉でしかなければ、こんなめんどうなことにはならない。
言葉にはイメージがくっついている。そのくっつきが弱い人と強い人がいて、自分はすごく強い方。
生きていれば色んなものが目に入る。そこでその現実の視覚と、言葉と(自分で思考していることも含む)、言葉に伴うイメージがすごい勢いで干渉し、あるいは一方が一方を瞬間瞬間、駆逐しあうのである。  

だからこそ、ほんの何分かであってもいいから、からだとだけ一緒にいて、その感覚だけを観ていると(少なくとも不快でないときがいいが)、突如としてものすごく大きなエネルギーが供給される。
つまり、感覚そのものに「言葉」はないということ。同意する人が、どれくらいいるかわからないけど。

これは何を意味しているか。
我々が感覚とだけ共にいるとき、我々はすべての混乱や懊悩から、解放されているということである。
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by zelan | 2010-06-24 23:00
2010年 05月 21日

2010年5月21日 うんざり

なんだか「文字情報」というものに飽きてきた。つまり言葉というものに。
かなり普遍化しすぎかもしれないし、ブログに書くのもヘンだけど、ネットやなんかで情報なんて無限に取れるし、かつ自分の興味の範疇におけるすべては追いきれないし、さらに頭の中ではそういう情報に刺激され、あるいは自然発生的に、うざったいくらいいつも言葉ばかりぎゃんぎゃんうなっていて、それに対比されるような「静けさ」というものが自分の中に生まれるのが昨今極めてまれなのだ。
一方制作とか運動などで手や体を動かしているとき、一瞬でも情報や言葉のくびきから解放されると、いきなり巨大なエネルギーが充填されるのを感じる。

こういうことを言うと情報・言葉好き、あるいは少なくともその価値を「客観的に」認めている人は「違うんでないの」と気色ばんで反論してくる場合があるのだが、私は不変の真理について言っているのでは、ない。

つまり今この瞬間の自分の状況において、情報や言葉に対しどのような態度を取るのが合理的か、ということを考えているだけなのだ。でも結局みな自分なのであるから、そういう態度の価値というものも、また、あるのだと思うので、こういうことを言っているのである。
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by zelan | 2010-05-21 01:04