原初のキス

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2018年 12月 15日

AIと絵画

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暫く前、AIがレンブラントの絵を描いたといってニュースになっていたが、自分はあまり驚かなかった。


だって、この時AIがやっているプロセスというのは絵を描く人が脳内でやっているプロセスに極めて近い。我々、多かれ少なかれAIのように描いている。持っている記憶や情報の参照や、所謂技能という形で内在化したプロセスと結果の組合せの安定的な出力などである。その点では、AI君(正しくは出力機器かもしれないがまあひっくるめて)が新作の描画に500時間もかかったと聞いて逆に少々微笑ましく思った位。このレンダリングの速度は、もしかしたらレンブラントの方が同じような絵を描いた方が速かったかもしれない。(時間という点ではキカイの方が今後どんどん速くなる可能性はあるけれど・・・。)

いずれにせよ、AIが何であれ人のやるアレコレをできるか否かというのは、便利になるようなことなら歓迎するものの自分にとって思弁的には殆ど興味がない事柄である。色んなことをAIはできるしやるようになる、でもだからこそ、キカイではなく自分(を含む人間というもの)がそれをやる、やっているということ自体の意味や価値があぶり出されてくるのである。

ちょっとややこしくかつ不適切な例えかもしれないけど、養殖うなぎが天然と見分けがつかなかったりおいしかったりすることはいくらでもある(うなぎを養殖する方々は天然の環境やらうなぎの天性やらを研究し、養殖事業に血道を上げているのだから)。でも、天然のうなぎ本体にとっては、養殖が自分よりおいしいとか速く育つとかはあまり関係なくて、他ならぬ天然の自分が天然の川をばんばん泳いでいることの方が、重要なのだ。

絵はAIで描ける。
のみならず多くの人間が描くより、客観的には余程質の高い、美的にも優れているものができる描ける可能性は高い(なぜなら人間のように不要な雑念が湧かないから)。人が描いたのかキカイが描いたのかの区別なんて、すぐつかなくなるし、もしかしたら今だってもうつかなくなってると思う。。

だから最後には、人が絵を描くとか、描いたのが人であるとか、そういう方向でしか、人にとっての価値は残らないはず。そしてその「価値」の意味や大きさは、人間自らが決定し、納得する必要があるのである。


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by zelan | 2018-12-15 20:46
2018年 12月 04日

知人の名言再び

2016年 8月 15日に以下のような記事を書いた。

絵を描く知人から今日聞いた言葉:

「絵は、8割くらいまで<どう描くか>に腐心し、
あとのちょっとのところで<何を描くか>に集中すればいいのである。」

これは名言である可能性が高い。なぜならば、世の中の常識の逆をはっているからである。

やはりこの言葉は謎めいている。
結局自分が「何」を描いて(やって)いるかって、かなり後になって色んなデータや考えが積みあがってきてからしかはっきりとはわからないのではないか。

かな・・・。人により解釈が異なってくるかもしれない。

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by zelan | 2018-12-04 12:18
2018年 06月 04日

王様に見せるのに・・・

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つい先ごろ終わった、上野・国立西洋美術館にて開催していた『プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光』を見に行って、遅ればせながらレビューすると、

ベラスケスは超絶すごい・・のであった。

勿論すごいからこそ生まれて400年以上たってから極東の島国で何カ月も展示される訳だが、自分なりの見方をすれば、例えば有名な上記の絵「王太子バルタサール・カルロス騎馬像」を実際に見ると、思った以上に後ろの丘陵地帯が粗くさっさっと描いてある。一方、馬のたてがみや王子様のソデなどの部分は極めて精緻な印象を与える。これらの落差、即ち粗密の付け方がとっても思い切りがよくてかっこいい。

特に自分はこの背景の描き方にえらく関心してしまった。普通、王様に見せるんだから「描きました、大変でした、すごいでしょ?」的にもっと描き込んで仕上げたくなってしまうのが人情ではなかろうか。こんなスカスカな感じですませておいて(でも離れて見るとすごくリアリティがある)、前景の主モチーフをばーんと前に出させるなんて、ほんとに思い切りがいいな・・。

ということで、ベラスケスのヒミツはソミツである、と個人的に見破った、今回の展示参観であった。



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by zelan | 2018-06-04 23:21
2018年 03月 19日

酒による比喩

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絵画は醸造酒であり、版画は蒸留酒である、というのは自分が持っているジャンル横断的な認識なのだが、この理由をいざ言葉で説明しようとするとなんだかめんどうくさいことになる。でも、それこそ先般酒を飲んでいる席でこの考えを披歴したら即座にそうだ!と同意してくれた人がいたので、あながち根拠のない妄想でもないのだろう。

池田満寿夫氏が確か60~70年代位に書いたエッセイに、油絵をやってるとマチエール(いわゆる絵肌、絵の表面の持っている質感のこと)を作るのに苦労して正直疲れ果ててしまうが、版画なら技法を選んだ途端にマチエールはある程度規定されてしまうので、自分にはそれが合っているし好きだ、みたいなことが書いてあって、この言説は上述の醸造酒蒸留酒理論と、自分の頭の中ではつながるものであった。

う~ん、でもこういうと、単に時間の問題、みたいに聴こえちゃうかな。そういうことでは、ないのだけれど。
版画ってのはその名の通り「版」があって、それを何かのプロセスを通すことによって元とは形態及び質の違うものに転化する。でも絵画はその存在自体の中でじわじわと積みあげるように自らを変えていく、という仕組みを持ったものなのだ。




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by zelan | 2018-03-19 00:18
2018年 03月 09日

ベランダ画壇(つづき)

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私は考えた。上にのっかってるものが堅牢なら下(支持体)をいぢめられやすいものにすればよいのでは、と。下の劣化が上の状況に微妙なる変化を及ぼさないとも限らない。いやむしろ、自分の経験ではかなりの高確率でそれは起こる。そこで支持体を頑丈なMDFからより傷みやすいであろう和紙に変え、その上に絵具を塗って今2回目の実験をしているのだ。普段天気が悪くなると気分も沈むものだが、最近は雨が急にばんばん降ったり、気温が乱高下したりすると心が踊る。

まだ2回目の途中なので、これが成功するかどうかわからない。でも当方がかつて長い間勤めていたソニーという会社のファウンダーである井深大氏も、「成功のコツは成功するまでやること」と仰っている。成功するまでやってみよう。

(でも今これを書いてて思ったが、地の絵具を塗っちゃってからベランダで育てるより、まずは裸の支持体の状態でぼろっぼろに育ててから地の絵具を塗るのが実は正しいんぢゃあないかしら・・?? 3クール目が必要かもしれない・・・。)

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by zelan | 2018-03-09 21:57
2018年 03月 08日

ベランダ画壇

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技術的なことなので秘していてもいいのだが、自分は今、ベランダで絵を育てている。

主にアクリル絵具で絵を描いているのだけれど、技法がやや特殊で、支持体にペインティングナイフ等で絵具を塗って凹凸のある地を作り、それが乾いてからシルクスクリーン版画などで使うスキージというヘラのような道具で別色をのばす、という行いをする。地の凹部に絵具が入り、凸部は薄くしかのらないので濃淡が得られる訳だ。一種の版表現で、地の微妙な凹凸などは全て次に色をのせたとき反映される。どれくらい微妙なものかと言えば、例えば地に白い絵具を塗るとして、同じジンクホワイトでもメーカーが違うと粒子の大きさや色のほんの少々の違いから、上に絵具を載せた時の結果が異なるという具合。

そこで、地を創った時点で風雪に晒してみたらどうだろうと思った。というか、先般グループ展に参加した際作家さんの一人がご親切に案をくれたのである。自分は風や雨や乾燥や湿度が地塗りをいぢめにいぢめ、上に色をのせた時に面白い効果を及ぼしてくれるのではないかと期待した。それでベランダに地だけ作った状態の施した描き掛けの絵を出して、野ざらしにしているのだ。

実はこの実験は、現在2クール目に入っている。
最初はいつも使っているMDF(集積版)の上に地を作ったのを、乾ききる前にベランダに出し、1週間程楽しみに変化を待った。しかし一週間たって取り込む時に見てみると、あにはからんや表面が多少汚れている程度で目覚ましくは変化・劣化しておらず、悪い予感がしたが案の定上の絵具を施してみても通常とさしたる違いがなかったのである。

樹脂恐るべし!と自分は思い知った。アクリル絵具の主成分はその名の通りアクリル樹脂である。樹脂全般に言えると思うが硬化後は水分などにはめっちゃ強い。雨ガッパを水に濡らすような・・なんていうんだっけこれ、そう、「カエルの面に水」的状態なのであった・・。
(この項続く)

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by zelan | 2018-03-08 21:58
2018年 03月 06日

内心絶叫

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絵はどんなしっかりした心持ちで描いていても途中で汚くなることがある。しかしそこであきらめるのでなければ、汚くなること自体は何の問題でもなく、むしろその過程ができた時にいい作用を及ぼしていることが多い。それを納得するのに10年かかった。
納得とは言うけれども自分の全身が本当に納得しきっているかどうかは、はなはだあやしい。何かの打ち手をとって、それが意に反して一応いい感じに推移していた画面に一見致命的な混乱状況をもたらした時、相変わらず頭の中で瞬間的に、あに点々をふったような大絶叫が巻き起こるからである。

でも制作中のリヒターのビデオを見てたら、「うー、あそこで青を塗ったのがまちがった~!」的なことを言っていたので、この現象は永遠に消えることはないのかもしれない。

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by zelan | 2018-03-06 11:29
2018年 03月 04日

Foundationは生き残る

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絵画では下地づくりが重視され、私も下地のセミナーなどに時々出かけている。
自分は技法上カンヴァスはメインの支持体としていなくて、集積板(MDF)を使うことが多い。以前最初の層にジェッソをしっかり塗ればいいかと思ってそうしていたが、結局その下にシーラーを二層程塗って、シーラー、ジェッソ、その上から描画層としないと発色が優れないことに気づいた。
シーラーと言えば前専門のものでなくちょっと別用途の透明樹脂系のものを塗ったら描画の際にマスキングテープを使いそれをはがした時に、ぺりぺりと支持体からジェッソ・その上の絵具ごとまるまる取れてしまって泣いたことがある。

何が言いたかったかと言えば、方針・戦略、そして人格といった「下(=先)にあるもの」は重要だなあ~、という自分の日常的感覚のことだ。
もっとも頭の理解と実践とは異なったりする。それをまざまざと見せつけてくれるのがまた、絵画のありがたいところである。

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by zelan | 2018-03-04 11:26
2018年 03月 02日

スパゲティと絵画

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いわゆるところの共感覚とはまた違うのだが、五感の主たる利用分野が違うもの例えば音楽と絵画などの質の上下を自分はよく比べている。もっと言えば料理とだって。何を言っているかと言えば、例えば近所の駅ビルの3Fのカフェでランチにスパゲティを食べるとする。それとその日手がけている自分の小品のどっちが上かを判断するのである。感覚に対する総合的な圧力やそのキレ、快感度だからできないこともない。
自分との比較において、勉強になるのは圧倒的に質の高いものを見聞き、食べ、経験すること。だから良いものに接することが重要という、当たり前の結論となる。


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by zelan | 2018-03-02 07:29
2018年 02月 20日

点をつける、ということ

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全ての芸術は音楽を憧れる、というが音楽は過程そのものが即ち芸術表現だから、というのはおそらくその理由の中に含まれているだろう。(一方、例えば絵画の制作過程は表現を創る途中及び手段である。)そういう意味ではフィギュアスケートなんかはスポーツだけど芸術ぽい。

でもすごく違うのは、「お点」がはっきり付くところ。

じゃ、芸術には点がまったくついてないか、というとそうでもない。自分など何かギャラリーに行って人の作品を見るたびに個人的には点をはっきり、0.1ポイント刻みくらいでつけている。一番イタい点は、「あ~、あらゆる意味において(構想、技術、表現性等々・・即ち多かれ少なかれ人格)100%、完敗」と思う時。でも完敗作品に出会えば出会うほど、自分の喜びでもある(=作品を楽しめる)のが、芸術のよいところである。

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by zelan | 2018-02-20 20:40