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原初のキス

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2019年 07月 12日

考えと絵とスポーツ

何かの発想がうかび、その主題でものを考えていると3段階ぐらいまでは深まってるないいぞいいぞという感じになるが、でも4,5段目ぐらいとかその先まで考え続けているとなんかごちゃっとしてきてかえってわかんなくなってくることが多い。

絵のマチエール(質感)の説得性なんかもそうで少なくとも自分の使っている技法の場合経験的にほぼ3から4層で基本的には決まる。ところがそこで何か物足りなくて足したりすると逆に、それまで基本的には存在していた簡潔性が全体として損なわれ、結局その付けたした層までを2層目ぐらいの存在にわざわざ捉え直して(捉え直すというのは例えば物理的には絵具やスプレーでつぶしたり)また改めてやってかなければいけないとなり・・、で、少なからぬ場合結局あんまりスパっとした状況にならないっていうことが多いんですね。

三段跳びって競技があると思うがあれは四段跳びとか五段跳びとかぢゃいけないんだろう、ということが、美術的体験としても納得なのであった。



by zelan | 2019-07-12 22:18 | 制作心理
2010年 10月 31日

考えるからだ

考えるときはよく頭で考えている。でも全身で考えた方がいい。

からだのコーディネーションのこと。このときの頭というのは解剖学的に正しい意味での頭(頭蓋骨の下辺は耳の穴のあたりの高さにある、顔の方で言えば目の少し下くらい)ではなく、顔がついている頭部全体と、首、肩のあたりまで。考えるときこのあたりを過剰に緊張させているときが多い。

でも、たとえば左足の薬指のあたりまで考えるという動作が波及していてもいいし、そういう方がよりうまく考えることができるような気がする。

by zelan | 2010-10-31 00:53
2010年 03月 29日

2010年3月29日 羨望

昼間家にいて見ていると、うちの犬はほとんどの時間自分のざぶとんの上でまるくなって寝ている。寝ているといっても必ずしも眠っているのでなく、眼をぱっちりあけているときも多い。
彼女が、何かを「考え」たり、「思い出し」たりしているわけではないだろうから、何かを「感じて」いるのだろうが、感覚の入力があってもそれに対し何も考えないでいられる状態が基本ずっと続くというのが、少々うらやましい気がする。
それとも自分以外の人類だって、結構な時間そういう状態なのかしらん。

感じたら考える、という流れは何か、入力に入力を重ねていくような感じで、閉鎖的。ずっとまわっていくだけで、すかっとしない。
自分がものを創ったりするのが好きなのは、感覚という入力に対して手を動かしたりする出力がきちんとほぼ必ず対応していくからなんだろう。

by zelan | 2010-03-29 00:03
2010年 03月 26日

2010年3月26日 快楽主義

感情を使わずに生きていけたら楽そうだ。理性だけで生きたい。
とか考えるのは、きっと少数派なんだろう。つまらなさそうに見えるから。
でも理性が常に発動し続けて、ものがありのままに見えたり適切な行動がいつも迷いなくわかりかつ実行できる状態なんて、自分のイメージではむしろ、精妙な状態で静かに続く永遠の官能、てな感じなんだけど。
だからほんものの快楽主義者ならば、それが正解の選択肢。

by zelan | 2010-03-26 08:56
2009年 10月 24日

2009年10月24日 感覚

感じていればよいのに考えていることが多いのはなぜか。
またなぜ感じているときにもふと、ことさらにもっと感じようとする
動きが出てくるのか。
一瞬でもクリアに感じたら、言語なしで一挙に知恵が生まれるのに。
これほどまでにそういう経験がまれであってもなお。

by zelan | 2009-10-24 00:37
2009年 10月 13日

2009年10月13日 絵画

絵を描く友達と話をした。秩序と無秩序のバランスがなー、とか言ってると、
大上段に振りかぶったようなこと考えたってだめよ、素朴なことを素朴に
考えればいいのよ、このミカンおいしそうだなとかこのリンゴまるいなとか。
リンゴの遺伝子解明したって何かわかったってことにはならないよ、と、
言われた。

感じることと考えること、このふたつは別のことだろうか。
前は完全に別のことだと思っていたけれど、最近はわからなくなることが
ある。

by zelan | 2009-10-13 09:43
2009年 10月 01日

2009年10月1日 禅亀

ある日、目黒の自然教育園で池のほとりに立っていたら、
遠くの方から一匹の亀がゆっくりやってきて、
濁った水の中から鼻づらを出してしばらく私の方を見ていた。
やがて来た方向に帰っていき、また戻ってきたときには
ひとまわり小さい亀と一緒で、二匹で私を見ていた。
それからまた戻っていって、今度来たときはさらに
小さい亀を一匹連れていた(親子!?)。
何を期待されていたのだろうか。
でもあげられるものは何もなかった。

また別の日、池を見ていたら、三匹一遍にやってきた。
池には亀がたくさんいるので、前の亀とは違うだろう。
それも大中小で親子みたいだった。
が、そこではっと気づいたのである。
三匹いたら、必ず大中小になるということが。

人間はいろんなことを考えたり解釈したりしている。
実際は、池のそばで突っ立っているだけだったにしても、
脳のCPUは、結構使った。

by zelan | 2009-10-01 09:47