原初のキス

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2010年 04月 02日

2010年4月2日 動き

動きには二種類あり、それは「流れ」と「振動」ではないのかしら。
振動は常に生じており、その振幅や安定性などは変わる。一方流れは、その震えているものが全体として向かう方向性のようなもので、速くなったり遅くなったり、なめらかだったりぎこちなかったりする。あるいは殆ど止まっているように見えるときも。ても、仮にとまっているようでも、次の動きに向けてただ静かに方向付けのポテンシャルを高めているような場合もありそうだ。

人体でも、物質でも、絵のように一見動いていないように見えるものにも、我々はそこに内在するその振動と流れを感じ取る能力を持っていて、何かを認識しているとき、我々はその「動き」そのものと、多かれ少なかれ一体化しているんだろう。
へんなものを見たり聞いたりする不快感は、自分がそれにいくばくかのっとられること、それに侵入されることを、厭がっているのである。

by zelan | 2010-04-02 22:25
2010年 01月 15日

2010年1月15日 歩く

いつものことだが歩き始めて20分もしてからやっと、ああ、主に下半身で歩くと気持ちがいいなあ、と思う。
歩くというのはもちろん全身が協調してする行為だが、物理的動きとしては足や骨盤のあたりに、ある程度任せておくのがいい感じ。首や頭の方で力んでもしょうがない。
でも頭の使いすぎだからか、つい上の方で余計なことばかりしてしまう。

by zelan | 2010-01-15 01:03
2009年 11月 06日

2009年11月7日 みっちり

人間は、ほんの数分しかなくとも、そこに行為を詰め込もうとする。
(具体的な行動だけでなく思考することも含めて。)
要は時間に何を詰め込むかが、我々の人生の全てになる。
時間を、受動的なこと、例えば、今起きている感覚に意識を向けることなどに
使うという選択肢もあるのだが、それを選ぶのはまれだ。
なんでも能動的にやりたがりすぎるのだ。空の箱を渡されて、そこに
ものを詰め込むように。
箱の中の空間も「ある」こと、その空気も「動いて」いるのを感じること、
それに時間を使いたいか、また実際どれくらい使うのかは、
単なる習慣というよりは、おそらく個々人の価値観に関わる。

by zelan | 2009-11-06 20:24
2009年 09月 27日

2009年7月18日 動かないものを、動かしたいのである

絵というのは逆説的なようだが究極的には動くことを目的としている。
そのためには絶対に、「つじつま」が合ってしまってはいけないものだ。
そうすると運動がなくなってしまい、絵は釘で打ち付けたように静止し、
結果絵としての生命がなくなる。
絵は見る人の感覚に震えを生じさせなければならない。
感覚を震わせるためには絵自体が震えていることが重要なのだ。

by zelan | 2009-09-27 13:02
2009年 09月 27日

2009年6月15日 誘惑

手をぶつけるようにしてものに触る人が多い。
自分も、あわてていたりするとよくそうなる。
なにをするにせよ、「たまごの黄身が割れない程度に」、
触れるのがいいと思う。
ところで、皮膚や筋肉には、そっとさわると内部で白血球が賦活する
というようなことを鍼灸師さんから聞いた。
強く押したりするとむしろ筋肉などはぎゅっと閉じてしまうらしい。
緊縮の逆ブレの弛緩を利用しているのが、強くもむマッサージとか。

相手に運動をおこさせようとすればそれを強制するのでなく、
誘うようにするのがよろしい、そういう意識すら持たずに。
絵にもそういうところがある。

by zelan | 2009-09-27 13:00
2009年 09月 27日

2009年6月10日 コラージュについて

コラージュとは、古典絵画などの切り抜きを始めとする既存のイメージの
組み合わせによって、新たなイメージを構成する技法である。
芸術表現としては1910年代にピカソやブラックが始めたとされ、
ダダやシュールレアリスムの運動の中で発展した。
代表的作家にはドイツのマックス・エルンストなどがいる。彼が1920年代末
に発表した「百頭女(ひゃくとうじょ)」は、今もコラージュ作品の金字塔として
有名である。

歴史的な説明はともかくとして、コラージュにおける制作上の面白さは、
「痕跡を残さずにモチーフを動かすことができる」という、平面芸術においては
稀有な特質を持っていることだ。
つまり自分の身体の運動性そのものと、飽かず戯れることができるのだ。
加えて、コラージュではイメージの構成要素である素材を自ら制作しない
ため、対象に迫る鍛錬されたデッサンや、マチエール(筆触)への意識に
エネルギーを振り分けることなく、イメージの強さそのものに単刀直入に
取り組むことができる。

他者の作った素材を通し運動性とイメージの強度を追求するという
コラージュの制作過程から、コラージュが持つこととなる特異な情緒は、
「他者性」の「侵入」である。
コラージュとは結局の処何かに何かを侵入させて、それが「ぐっとくれば」
いいものだ。

その意味でコラージュは、いずれの作品も象徴的には一種の性的な表現と、
言えるかもしれない。

by zelan | 2009-09-27 12:59 | コラージュ