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原初のキス

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2019年 01月 22日

正解二種

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自分は比較的最近まで全ての問題には絶対的な正解があると思ってきた(それに自分がたどり着けるか否かは別して)。
でも最近になって、絶対的答えっていうのはない場合も多いんだろうとしぶしぶ認めるようになった。
しかし何と今でも、「相対的正解」はあると思っているのである。つまり何かの問題について考えるとき我々は多くの場合答えに関するいくつかの仮説から選択する。そういう場合には他の選択肢より総合的に見て優れた答えというものが必ずあるように思う訳。もしかしたらこれも事実ではなく、問題によっては答えだのよりよい答えだのがないものもあるかもしれない。でも、であるならそもそもそれを「問題」と捉えることが「問題」だと、個人的には思うのである。

という「正解問題」について頭を巡らしていた時具体的にどんな状況だったかというと、部屋を片付けてから風呂に入るか、風呂に入ってから片付けをするかということで迷ってたんですね。
冬場になるとお風呂のお湯が冷めやすいのでなるべく早く入った方がいいが、制作してやや乱れていた部屋を見るとこれを放置してお湯に浸かってもリラックスできそうになくしっくりこない。
実は自分の理性が即座に出していた答えは風呂に入るである(だって迷ってる間にも湯がどんどん冷めるんだもん)。ただ感情は感情で明確に掃除を優先したがっていたのである。そこで力を振り絞り、「相対的正解」を選択即ち風呂に入ったのだった。

ところでコラージュを作っていて、何かの素材に別の素材を組み合わせる時、それには正解っていうものがあるのだろうか。
物理的には無限に近いほどある選択肢の中からより適合するものを選ぶということで、ここでもまた相対的な解が登場だ。言ってみればすべてのコラージュは作家が必死で選んだ相対的解の集まりで創られている。

一方優れたコラージュというものは相対的なはずの解が絶対的解に見えるのです。これが不思議。

1月26日から。





by zelan | 2019-01-22 12:16 | コラージュ
2019年 01月 15日

エラーレス、気になる

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最近、「エラーレスラーニング」ということが気になってしょうがない。
美術において(だけじゃないかもしれないが、例えばビジネスとか)、挑戦する、ということは非常に重要視及び称揚されているのであって、それはえてしてやってみなければ結果のわからないことにも果敢に挑戦する、ということが概念的には含まれるだろう。
一方エラーレスラーニングというのは、よく認知症とか記憶障害のリハビリ・治療に用いられるようだが、謝りなくできることを実行していくことで結果としてパフォーマンスをあげていくことで(あまり情報がなかったのでかなり不正確な言い方になっていると思うけど・・)、例えば以下のサイトを引用させて頂く。


美術制作などでも、何か試みる際にエラーが生じるかもしれない部分が大きすぎると、後で泣く&やる気が激下がり状態になる、時間及び経費がハデに失われることがすごく多いのである。感覚的には、これ使うとこうなる、こうすればこうなる、というデータ及び経験が確立されていてエラーほぼ起こらない率6割~7割で進める、と言う風に、全部でないにしても部分的エラーレスに保っておくのが至極重要に思う。

が、結構これ忘れちゃうんですね。エラー起こらない率5割だと、結局の処イチかバチか、ということになる。




by zelan | 2019-01-15 21:16 | 制作心理
2019年 01月 08日

アイデア

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今面白いアイデアが浮かんだのだが、決して「修正」をせずに果たして満足できる作品ができるだろうか。

 「できる」というのが自分の答え(仮説)である。

なぜなら、「修正」というのは明確に、多くの場合あまりワークするとも思えない「心の構え」であって、実際は何か違うなー、と思ったらその状況から発して「新たな手」を打てばいいからだ。


by zelan | 2019-01-08 22:25
2019年 01月 05日

企図というもの

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自分の小さな頭で考えるような企図、その思い通りになってしまったら絵なんかできないのに、どうしても思い通りにすることをまずは、そして過程においても多かれ少なかれ継続的に追ってしまう自分。

そうして、思い通りではなかった(が故に)作画上良きことが現れると、

そうだ、具体的な企図を計画通りに実現することをもって、良きことってあまり現れてこないのが常なのだ、と気づくのである。


by zelan | 2019-01-05 22:18
2018年 12月 26日

Artist Statement

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Artist Statementというものがあって作家はそれを明確に、かつ昨今では恐らく戦略的に、プレゼンすることを強く強く推奨される。

プレゼンされたものを見ると読む人にとってはかなり、なんだかこれを元に、これがあったから制作したように見えるのだが、実際は作家が創るから自分の作品からのフィードバックでStatementがしかるべく書けるというのが大きな流れである。即ち、物事の基本の順序としてはStatementの内容 → 制作でなく、制作 → Statementだ。

それくらい人間て自分のことを知らない。

て、いうと「自分」というものがあるように聞こえるが、仏教では自分があることすら否定していて、それが真実なら、自分(として認知されている連続的知覚的知的現象)的なるものを本人(として認知されている連続的知覚的知的現象)がはっきり知らないのも、ごく当たり前のことなのだが。



by zelan | 2018-12-26 09:40
2018年 12月 17日

積み上げ

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ささやかであれ大層なことであれ、多かれ少なかれ積み上げてきたものをことさら「見せよう」としたり、「現れてたらいいな」と思ってしまうのは人情だ。しかしその結果表面に現れる「積み上げ感」は結局の処表現物にとってノイズに他ならない。手や努力の跡は、積んでいくのでなくできれば消していきたい。


by zelan | 2018-12-17 23:10
2018年 12月 12日

理由

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なぜものを創るのか、という理由を自らに問えば、それは表現するためというよりは理解するためである。

何かを「表現しよう」ということはつまり、「何を」表現しようとするかがわかっていないといけないが、いかに単純に見えるものであれそれがわかった!と言える程に単純であるということはほぼないのだから。

結局自分が何を表現しようとしているのかなんて、その何かに興味を持ってから後に、彫刻みたいにそれを彫っていって違う感じがしたりしっくりきたりというのを繰り返しながらより確かな筋を見つけてそれが何だったか、何になりうるのかを気づいていく過程を通してしか理解できない。狙って撃つ、と言う程に単純ではないのである。

こう書くと、やっぱりアートとビジネスって違うなーという感想が出そうな一方、似たところもある、と見ることもできるかも。


by zelan | 2018-12-12 22:38
2018年 12月 06日

コラージュと目線

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1月からカルチャースクールでコラージュの講座を持つ予定なので、コラージュの技法や制作心理について振り返りを兼ねてこのブログでも記事を書いていこうと思う。その第一回として以前の記事を再録。

2009年12月16日 可能性

コラージュは眼と脳に対する刺激を創るものだから、画面には常にある程度刺激が溢れており、制作中の画面をじっと見ているとその刺激に慣れすぎてわからなくなる。
だから見てるような見てないような横目で見る感じで創るのだ。画面そのものを見ている時間より、そこに置く素材を見て選んでいる時間を意識的に長くしたりもする。また、画面を見ているときですら、視覚に入り込むというよりからだの軸の感じはどうかとか画面から音が聴こえるか否か(聴こえない方が私はいい)など、他の感覚に注意を注ぐようにする。
見つめすぎないというこれは結構何年もやってから気づくようなノウハウだけど、でも、じいっと見ても感覚さえ冴えていれば、むしろいいものが創れるかもしれない、という可能性もまた、頭のすみに置いておくことにする。

・・・うー、第一回にしてはマニアックすぎるかもしれない(その証拠に自分自身このいわゆるノウハウは忘れていた)。
次回は「コラージュとハサミ」とか、もう少しストレートにいってみよう。

(図像 是蘭「開城の兆し」2009 コラージュ)


by zelan | 2018-12-06 23:14
2018年 12月 04日

知人の名言再び

2016年 8月 15日に以下のような記事を書いた。

絵を描く知人から今日聞いた言葉:

「絵は、8割くらいまで<どう描くか>に腐心し、
あとのちょっとのところで<何を描くか>に集中すればいいのである。」

これは名言である可能性が高い。なぜならば、世の中の常識の逆をはっているからである。

やはりこの言葉は謎めいている。
結局自分が「何」を描いて(やって)いるかって、かなり後になって色んなデータや考えが積みあがってきてからしかはっきりとはわからないのではないか。

かな・・・。人により解釈が異なってくるかもしれない。


by zelan | 2018-12-04 12:18
2018年 11月 25日

あえて豊かさにNoを言う

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基本的に自分の関心が高い作品群というのは俳句か寿司のようなものである。関心が高いだけあって自分自身もなるべくそのようなものを創りたいと志している。「戦争と平和」みたいな長い小説や、ヌーベルじゃないフレンチというような嗜好ではそもそもないのである。

ところが、俳句を目指して創り始め、五・七・五でまとまらずどかどか要素や絵具の層を足して制作過程や見かけが中編小説めいてくることが別段珍しくもない。本質的な望みやアイデンティティからずれているがために当然のことながら、最終的に一定のレベルを確保しようとする上で、えらく苦労する。

マチエール(質感)が足しあがってくるので完全に否定する必要はない。必ず失敗するという訳でもない。かのピカソだって、「何かを創ろうとすると別のものになっちゃうんだよね・・」という趣旨のことを確か言っていたし、寿司を握るつもりで鴨のテリーヌ、くるみペーストとあぶりキノコのソースを添えて・・・になってもいいではないかという観点から、これまでこうしたなりゆきについて自身を納得させてきた。ただいつもなんとなく、違和感があったのである。

そして今日ついに、もっとずっと早く気づいていても全然不思議ではないこの違和感の正体に気づいた。
つまり、なりゆきの中で苦労して、その中で色んなことも発見しつつ作品を仕上げるということはそれが意識的にしたいならばもちろんあってもいいことだけれど、このプロセスにはまった際においては自分の最も志向している「俳句」の訓練には少なくともなってない、ということである。ホームランを打たんとして平均台によじ登っているの感がある。

五・七・五だからこそ俳句になる。今日はなりゆき上八・九・二とか一・二十七・六・七十三でいってみるか、というオプションに我々は惑わされる。実体はもっていかれている癖に、ぼーっとしているとついそちらの方が自由で豊かに見えるからである。



by zelan | 2018-11-25 00:09