原初のキス

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2018年 12月 12日

理由

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なぜものを創るのか、という理由を自らに問えば、それは表現するためというよりは理解するためである。

何かを「表現しよう」ということはつまり、「何を」表現しようとするかがわかっていないといけないが、いかに単純に見えるものであれそれがわかった!と言える程に単純であるということはほぼないのだから。

結局自分が何を表現しようとしているのかなんて、その何かに興味を持ってから後に、彫刻みたいにそれを彫っていって違う感じがしたりしっくりきたりというのを繰り返しながらより確かな筋を見つけてそれが何だったか、何になりうるのかを気づいていく過程を通してしか理解できない。狙って撃つ、と言う程に単純ではないのである。

こう書くと、やっぱりアートとビジネスって違うなーという感想が出そうな一方、似たところもある、と見ることもできるかも。

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by zelan | 2018-12-12 22:38
2018年 12月 06日

コラージュと目線

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1月からカルチャースクールでコラージュの講座を持つ予定なので、コラージュの技法や制作心理について振り返りを兼ねてこのブログでも記事を書いていこうと思う。その第一回として以前の記事を再録。

2009年12月16日 可能性

コラージュは眼と脳に対する刺激を創るものだから、画面には常にある程度刺激が溢れており、制作中の画面をじっと見ているとその刺激に慣れすぎてわからなくなる。
だから見てるような見てないような横目で見る感じで創るのだ。画面そのものを見ている時間より、そこに置く素材を見て選んでいる時間を意識的に長くしたりもする。また、画面を見ているときですら、視覚に入り込むというよりからだの軸の感じはどうかとか画面から音が聴こえるか否か(聴こえない方が私はいい)など、他の感覚に注意を注ぐようにする。
見つめすぎないというこれは結構何年もやってから気づくようなノウハウだけど、でも、じいっと見ても感覚さえ冴えていれば、むしろいいものが創れるかもしれない、という可能性もまた、頭のすみに置いておくことにする。

・・・うー、第一回にしてはマニアックすぎるかもしれない(その証拠に自分自身このいわゆるノウハウは忘れていた)。
次回は「コラージュとハサミ」とか、もう少しストレートにいってみよう。

(図像 是蘭「開城の兆し」2009 コラージュ)

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by zelan | 2018-12-06 23:14
2018年 12月 04日

知人の名言再び

2016年 8月 15日に以下のような記事を書いた。

絵を描く知人から今日聞いた言葉:

「絵は、8割くらいまで<どう描くか>に腐心し、
あとのちょっとのところで<何を描くか>に集中すればいいのである。」

これは名言である可能性が高い。なぜならば、世の中の常識の逆をはっているからである。

やはりこの言葉は謎めいている。
結局自分が「何」を描いて(やって)いるかって、かなり後になって色んなデータや考えが積みあがってきてからしかはっきりとはわからないのではないか。

かな・・・。人により解釈が異なってくるかもしれない。

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by zelan | 2018-12-04 12:18
2018年 11月 25日

あえて豊かさにNoを言う

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基本的に自分の関心が高い作品群というのは俳句か寿司のようなものである。関心が高いだけあって自分自身もなるべくそのようなものを創りたいと志している。「戦争と平和」みたいな長い小説や、ヌーベルじゃないフレンチというような嗜好ではそもそもないのである。

ところが、俳句を目指して創り始め、五・七・五でまとまらずどかどか要素や絵具の層を足して制作過程や見かけが中編小説めいてくることが別段珍しくもない。本質的な望みやアイデンティティからずれているがために当然のことながら、最終的に一定のレベルを確保しようとする上で、えらく苦労する。

マチエール(質感)が足しあがってくるので完全に否定する必要はない。必ず失敗するという訳でもない。かのピカソだって、「何かを創ろうとすると別のものになっちゃうんだよね・・」という趣旨のことを確か言っていたし、寿司を握るつもりで鴨のテリーヌ、くるみペーストとあぶりキノコのソースを添えて・・・になってもいいではないかという観点から、これまでこうしたなりゆきについて自身を納得させてきた。ただいつもなんとなく、違和感があったのである。

そして今日ついに、もっとずっと早く気づいていても全然不思議ではないこの違和感の正体に気づいた。
つまり、なりゆきの中で苦労して、その中で色んなことも発見しつつ作品を仕上げるということはそれが意識的にしたいならばもちろんあってもいいことだけれど、このプロセスにはまった際においては自分の最も志向している「俳句」の訓練には少なくともなってない、ということである。ホームランを打たんとして平均台によじ登っているの感がある。

五・七・五だからこそ俳句になる。今日はなりゆき上八・九・二とか一・二十七・六・七十三でいってみるか、というオプションに我々は惑わされる。実体はもっていかれている癖に、ぼーっとしているとついそちらの方が自由で豊かに見えるからである。


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by zelan | 2018-11-25 00:09
2018年 09月 20日

ボケたらもっとボケボケに

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絵を描いていて例えば部分的に「ここがボケてるな・・」と思ったらすぐにはっきりさせたくなるのだけど、むしろボケをボッケボケに強調する方が経験的にはいいような気がするのである。
はっきりさせると他のはっきりのところとの差が減少して、全体としてのっぺりになっちゃう・・。

人間の欠点というものもそういうところがあるかもしれない。欠点とか苦手とか、一見劣っていると見受けられるところは結局のところむしろ拡大して利用した方が、完全に避けて通ったり正面突破(克服)しようとしたりするより成功確率が高いのでは、と感じられる。

本件については似たようなことを以前の記事でも書いた。

なぜ同じようなことをよく考えているかというと、制作上自分ができないとか、やりたくないとかそういうことどもは結構たくさんある訳であって、でもふとそういう能力があるといいのではなどと考えた際に、確信犯的に逃げ切るか、あるいは工夫してそれっぽくみせるか、訓練するか、とりあえずやってみるか(稀だがそれで意外にうまくいくこともある)を迷う、という場面が頻繁にあるから。で、経験的には、「ボケたらもっとボケボケに」作戦すなわち、「不足している能力」を「過剰な無能」みたいにするのが、比較的有意義だったように思うのである。

とはいえ、訓練あるいはやみくもに突破してみようかなー、という色気がしょっちゅう出てしまう。もしかしたらそれらの試みで膨大な時間を消費しているかもしれない。
これについてはスティーブ・ジョブスの黒いタートルネックのように決めた答えを常に選ぶ、という習慣を確立できないのである。
 

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by zelan | 2018-09-20 16:33