原初のキス

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2019年 01月 03日

信じない


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信じるとは明らかに、不確かなものに対する態度である。
なぜなら既に知っていたり、はっきりと理解したことについて、人は信じるという言葉を使わないからだ。
「うちの犬の名前はマロンであると信じる」と言う人はいない。

でも考えてみたらそんなことを言い切ってる自分、めちゃ色んなことを信じている。
例えばメモしておかなければ、重要なことを忘れてしまう、と「信じ」ているので、有害な位にデジタル及びアナログのメモとりまくっている。友達から電話があって、40分後にXX駅の改札ね!と言われてもすぐさまポストイットに時間と駅名をメモし、PCのモニターの上辺に貼ってしまう位、病膏肓に入った状態のメモ魔なのだが、これまでの人生で殆ど(ゼロとは言わないが)、待ち合わせの約束を忘れたことはないのだ。制作のアイデアメモなんかも、いつか創るかも、いつか役に立つかもというもくろみの下、化け猫みたいに9回生まれ変わっても創れきれないくらいたまってる。

メモをとるのを3日間だけでもやめてみようかな・・・コワ。
清水の舞台から飛び降りるような気持ちでそれに取り組めば、もしかしたら新たな超時短人生が開けるかもしれないのに、その可能性をまだ十分に「信じて」いないために、その行動が取れないのである。信じることの弊害は、必ずそれに関わる行動というものが岩盤のように形成されて、容易には変更できないことである。

なんらかの手段により信じているものを書き換える、というのもアリかもしれないが、自分の好みとしては、できることなら「何も信じない」方面に進みたい。
だって何かを「信じる」って、本当に、現実的に、それがないと何もたち行かない位に、必要かなあ?
人間はなんでもすぐに信じちゃうので、その全体を「悪行」と捉え、気づいたらすぐさま信念の断捨離にいそしんだ方が、いいのじゃないかしら。

言うはやすし行うは難しではあるが、請け売りではあるがブッダが容易に「信じる」ことを戒めたことがあったそうである。即ち、

 言い伝えられてきた、評判になっている、お経に書いてある、理屈や常識に合っている、自分の考えや信頼できる人(ブッダ自身も含め)が言っている

ことだからといって、信じてはならない、自分で確かめろと。
私なんかさほど評判には左右されないけれど理屈、自分の考え、尊敬できる人・・のあたりはかなり心許ない。

それにしても、特に初期仏教ってそもそも宗教と言えるのだろうか。これを見ると、宗教だと「信じて」たのが間違いなのかも。


by zelan | 2019-01-03 20:28
2018年 01月 24日

ある休憩の思ひ出

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以前初期仏教に興味を持ち高名なお坊さんの何回コースかのレクチャーをカルチャーセンターに聞きにいったりしていた。1回が2時間程あって途中に休憩が入るのだが少し時間が押してしまった回がありその時お坊さんが「じゃ、これから1分休憩」とおっしゃるので1分だけ皆で静かにしていた。それから後半の講義が始まった。

自分の記憶の中では、この休憩こそがこれまでの人生の中でも特記すべき素晴らしい休憩だったのである。すっきりして活力が戻り、後半の講義も最後まで集中して聞けた。でもじゃあ、我々の普段の休憩ってなんなのかしら。なんでこんなにしょっちゅうそれなりの時間をとったり、それでもさほど休まらないというのがあるのか。

最近読んだ本に書いてあったが、例えば、何々を「やらなきゃ」と考えるだけで脳は若干混乱するそうである。やらなきゃ、ではやるのかやらないのか、やるとしてもいつやるのか、脳にとっては大層不足情報が多い状態らしい。これはなんとなく分かる。だから「やる」(あるいはいついつやる、またはやるのをやめる)、と、自分に宣言するのがいいとか。

上記の休憩では、事実上自分が自分に「休む!」と宣言した状態になったのかもしれない。それでもって生理的な状態にまで瞬時に影響した可能性が確かにあると思う。




by zelan | 2018-01-24 22:50
2018年 01月 09日

インターネットは、えらいのか

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JRのホームにて、電車がゴーゴーと通り過ぎたくさんの人が乗り降りするのを見て、インターネットのみがものすごくえらい訳でもない、と悟る。
江戸時代にこの光景は想像もつかなかっただろう。今日、例えばネットによって人類が多大なる利便を享受しているのは確かだが、技術の進歩というものは基本このように人々の生活をガラっと変える性質を有しており、恐らく原始時代から連綿とそれは続いてきたのだ。

自分は信者ではないものの初期仏教を思想的に面白いと思ったため少しかじったことがあるのだが、大変興味深いことにそこで、「物事の変化の速度はなんであれ一定である」という説に接した。見かけはインターネットでハデに急速に世の中が変わったと感じちゃうところはあるけれども、進歩(即ち変化)は一定の割合で日々着々と進んでいるのである。


by zelan | 2018-01-09 11:15
2011年 03月 07日

超克

違和感というのはかなり貴重な存在。初期仏教においては、人は結局「違い」を理解することしかできない、とされていると聞いたこともある。
違和感を受けとめれば多少なり目指すところに近づこうとする。矛盾を感じればそれを超克したいと思う。

by zelan | 2011-03-07 19:30
2010年 03月 01日

2010年3月1日 情報と集中

昨年の夏家のリフォームをしていたとき、不動産経営をしている知人の空きマンションに一週間程住ませてもらっていたが、そこがオフラインだったのでメールもWebも一切見なかった。TVも、そこに備えつけてあったのはPCと一体だったのでなんだかめんどうであまりつけなかった。結局ものを創ったり、食事や散歩、知人と会ったりする少々の社交。こういう状況になると、何をするにもがぜん集中力が出てくる。

「まとめて主義」からの脱却という記事は以前書いたものの、まとまってた方がいいこともやはりあって、精神の流れは理想的には一本の筋みたいに、あまり寸断されずに流れていた方がいいというのが自分の考え。
オンラインという状況はもちろん使いようだし基本便利だけど結構こころをぶつぶつにカットする。情報に対し、ブロックするにせよ整流化するにせよ来るもの拒まずにするにせよ立場をはっきりしておかないと、知らず知らずのうちに無駄なことに時間を費やすことになる。
無駄とは言ったけれど、むしろたいていのことは多かれ少なかれためになるから、つまり、ためになる「度合い」が重要だということである。今みたいに情報が無限に近いほど受発信できる時代においては、ますますそう。

相手のためになることを、少しだけ話す、のが初期仏教では重要と考えられているとか。
「おはよう、元気?」という挨拶を交わすことすら、出家者に対してはブッダはいましめた、ということを聞いたことがある。

by zelan | 2010-03-01 00:06