原初のキス

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2019年 01月 26日

コラージュと朝ごはん

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このブログでも最近紹介している岡上淑子氏のコラージュの展示が目黒の庭園美術館でいよいよ今日から始まる。


コラージュは結構根源的に人間の営為に近い。人はいつもいろんなものを「組み合わせ」ているからだ。
朝ごはんを作る時に卵焼きと目玉焼きとスクランブルエッグを出して旦那や子供を驚かさずに卵焼きとお味噌汁と干物とご飯を出すのも立派な組み合わせ感覚及び行為である。

もっとも表現としてのコラージュは和定食ではない。大昔カリフォルニアロールというものを知りちょっとびっくりしたが食べ物でいえばあっちの方がコラージュに近い。それまで米とアボカドを一緒に考えることなんて殆どなかっただろうから。

コラージュは即ち基本的な制作原理として、素材同士であれ素材の持っている一般概念に対してであれ、「距離」を作るというのが重要である。そういう意味では卵焼きと目玉焼きとスクランブルエッグ朝食は意外にコラージュ。通常の、卵料理を含む朝ごはん概念からの「距離」があるからである。


by zelan | 2019-01-26 12:16 | コラージュ
2019年 01月 22日

正解二種

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自分は比較的最近まで全ての問題には絶対的な正解があると思ってきた(それに自分がたどり着けるか否かは別して)。
でも最近になって、絶対的答えっていうのはない場合も多いんだろうとしぶしぶ認めるようになった。
しかし何と今でも、「相対的正解」はあると思っているのである。つまり何かの問題について考えるとき我々は多くの場合答えに関するいくつかの仮説から選択する。そういう場合には他の選択肢より総合的に見て優れた答えというものが必ずあるように思う訳。もしかしたらこれも事実ではなく、問題によっては答えだのよりよい答えだのがないものもあるかもしれない。でも、であるならそもそもそれを「問題」と捉えることが「問題」だと、個人的には思うのである。

という「正解問題」について頭を巡らしていた時具体的にどんな状況だったかというと、部屋を片付けてから風呂に入るか、風呂に入ってから片付けをするかということで迷ってたんですね。
冬場になるとお風呂のお湯が冷めやすいのでなるべく早く入った方がいいが、制作してやや乱れていた部屋を見るとこれを放置してお湯に浸かってもリラックスできそうになくしっくりこない。
実は自分の理性が即座に出していた答えは風呂に入るである(だって迷ってる間にも湯がどんどん冷めるんだもん)。ただ感情は感情で明確に掃除を優先したがっていたのである。そこで力を振り絞り、「相対的正解」を選択即ち風呂に入ったのだった。

ところでコラージュを作っていて、何かの素材に別の素材を組み合わせる時、それには正解っていうものがあるのだろうか。
物理的には無限に近いほどある選択肢の中からより適合するものを選ぶということで、ここでもまた相対的な解が登場だ。言ってみればすべてのコラージュは作家が必死で選んだ相対的解の集まりで創られている。

一方優れたコラージュというものは相対的なはずの解が絶対的解に見えるのです。これが不思議。

1月26日から。





by zelan | 2019-01-22 12:16 | コラージュ
2019年 01月 13日

岡上氏と「センス」~ 「岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟」展 (東京都庭園美術館)

コラージュ界というものがもしあるとすれば、今この話題でもちきり(のはず)なのが、目黒の庭園美術館で1月26日から4月7日まで開催される


であろう。

岡上氏は評論家・瀧口修造に見いだされた美術作家で、主には昭和2,30年代の短期間集中的に非常に密度の高いコラージュ作品を制作した。
家庭に入って制作から離れていたため一時忘れられた存在だったが、香り立つ閃光のごとき豪奢にして硬質かつ官能的作品の数々は近年再評価され、MOMAにも作品収蔵されている。
結論:必見!!(以前実作を写真美術館やアートフェアで拝見しているので、確信をもってこう言うのである。)

作品に、感覚的圧力があるのに品がある。
圧と品とはえてして矛盾するのに、である。
圧を得んとして品を捨てることは、もしかしたら美術に限らないかもしれないけど事象として(とても頻繁に)ある、
圧があるのに品がある、それをして人は「センス」と呼ぶのかもしれない。



by zelan | 2019-01-13 20:47
2018年 12月 30日

コラージュとはさみ

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かなり以前にコラージュを始めてからのち、何年もたってから、はさみを小さいのに変えた。
それまではゾーリンゲンのそれなりに切れ味のよい普通の大きさのものを使っていたが、小さくて刃もほっそりしたものに変えたら、とんでもない位切るという作業が効率的かつ精緻にできるようになったのであった。

今から思うになぜもっと早く気づかなかったんだバカバカ・・と思うが、とにかく全然気づかなかった。
ストレートなコラージュの素材は多くの場合印刷物から取るので、紙のサイズはあまり大きくなく、かつ、作品であるのでその切り取りの精度はある程度以上高く保たねばならない。とすれば、素材の細かい稜線を切ることのできる小さくて華奢で小回りのきくはさみがいいに決まっているのに・・!

恐らく、ゾーリンゲンで大きな不服がなかったのがいけなかったのだ。
こういう状況が進歩においてはごく問題。携帯電話がなかった頃凡人たる自分は、待ち合わせの場所に知人が現れなかったらうちに戻っておっとり刀で固定電話の着信を待つか、自分で掛ける、ということをやっていた。より便利な状況というものが思いもよらなかったので。
明確な不便や不服といったものは、通常逆に我々の眼を覚まさせてくれるものだ。

もとい、それにしてもなぜ小さい鋏がいいと気づいたのか、自らハッとしたという記憶もなければ人に教わった覚えもない。
ただ鋏といって思い出すのは昔、裁縫用の糸切ばさみ(握り鋏ともいう文字通り握ってすぐ使える例のなんというかカニのハサミ状の・・)で全てのコラージュの素材を切っていた人を見たことだ。
これには心底驚いてしまった。もしかしたらそこで、ゾーリンゲンだけが解でない、という思考上の可能性が開けたのかもしれない・・・。


by zelan | 2018-12-30 08:54
2018年 12月 16日

二度触れてはならない

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掃除がごはんより好きな自分だが、昨日は疲れていて、夜やや乱れていた部屋を片付けるのが面倒だった。
そこで時短になるかなーと思い、「ものに一度しか触れないこと」というルールを自分に課してやってみた。
何かを手に持ったらそれをしかるべき場所に置くとか捨てるなどの適切な処理を一つ一つ完全に完了させるというもので、どこに置くか迷って一旦置いたものをまた動かしたり、他のものとまとめるためにちょっとずらしてから持ちなおしたりといったことを禁じたのである。

以下のようなことを発見した。

1.ものへの触れ方が即座に変わる~丁寧で繊細になる。
2.脳細胞が活性化し疲れが吹っ飛ぶ。
3.かなりの時短になる。

いいではないか。ちょっと修行みたい。こういうルールがないと、人間整理をしているときなどよく、ものの扱いを安易に保留して別のに浮気したりして、無駄にあーだこーだやってしまっているものだな、と気づく。

コラージュのモチーフなども、なんの疑問もなくあれこれ置きなおして他のモチーフとの関係性や動的な平衡を模索したりするものだが、それはそれでよしとしても、この「なんの疑問もなく」というのが意外に曲者なのかもしれない。


by zelan | 2018-12-16 21:16
2018年 12月 12日

「初めてのコラージュ」 目黒学園カルチャースクール 初回1月9日

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2019年1月より、目黒駅至近の目黒学園カルチャースクールにて初心者の方向けコラージュ制作の連続講座を持つ予定です。
第2第4水曜日15:30 – 17:00(各期全6回)
初回/体験会は、1月9日(水)です。

コラージュは写実描写など鍛錬を必要とする技術を直接的には必要とせずとても取り組みやすい一方、人間の意識・無意識や感覚の特徴、自分自身の美的関心や内心のイメージのありようについての理解を素早く深めていくことのできる技法です。

詳細、お申込みは以下リンクよりご覧ください。

目黒学園カルチャースクールトップ
講座詳細








by zelan | 2018-12-12 17:07
2018年 12月 10日

コラージュと流体

ごく最近思い至ったのが、コラージュとは一種の流体技法であるということである。
糊で貼り付ける前なら、モチーフはいくらでも動かせる。描写的な技法が一瞬一瞬動作の軌跡を画面に定着させていくのと根本的に原理が違う。

私は美術をコラージュから始めてその後主には絵具を使った混合技法で、かつ絵具の流動体としてのふるまいを定着させるという関心で創ってきたが、どうしてコラージュからこっちに移行してきたか、自分でも今一つ理解できなかった。基本的には印刷物を使うストレートなコラージュは大きさやマチエール(質感)にある程度制約があり、その制約を逃れ、より自由を求めようとしたというのが仮説だったけれど、これも間違いでないにせよ実は流体への関心、という同じ軸の周りを回っているとも言える。

これに関し、世阿弥の風姿花伝の、初心忘るべからずという言葉を思い出す。私はこれを、始めにやっていたことは忘れなくてもいいよ、という風に解釈しているのであって、人間は変わるけれども変わらない、何かを捨てたり忘れたり、超克したりしようとしたりするが、元の自分には常に今の自分の予見があり、今の自分には常に過去の自分の名残がある。この名残はしぶとくて、種のようなものでもあり、また次の芽をふくときが場合によってはあるのではないかと、自分は期待しているのである。




by zelan | 2018-12-10 22:01
2018年 12月 06日

コラージュと目線

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1月からカルチャースクールでコラージュの講座を持つ予定なので、コラージュの技法や制作心理について振り返りを兼ねてこのブログでも記事を書いていこうと思う。その第一回として以前の記事を再録。

2009年12月16日 可能性

コラージュは眼と脳に対する刺激を創るものだから、画面には常にある程度刺激が溢れており、制作中の画面をじっと見ているとその刺激に慣れすぎてわからなくなる。
だから見てるような見てないような横目で見る感じで創るのだ。画面そのものを見ている時間より、そこに置く素材を見て選んでいる時間を意識的に長くしたりもする。また、画面を見ているときですら、視覚に入り込むというよりからだの軸の感じはどうかとか画面から音が聴こえるか否か(聴こえない方が私はいい)など、他の感覚に注意を注ぐようにする。
見つめすぎないというこれは結構何年もやってから気づくようなノウハウだけど、でも、じいっと見ても感覚さえ冴えていれば、むしろいいものが創れるかもしれない、という可能性もまた、頭のすみに置いておくことにする。

・・・うー、第一回にしてはマニアックすぎるかもしれない(その証拠に自分自身このいわゆるノウハウは忘れていた)。
次回は「コラージュとハサミ」とか、もう少しストレートにいってみよう。

(図像 是蘭「開城の兆し」2009 コラージュ)


by zelan | 2018-12-06 23:14
2018年 10月 31日

脳内コラージュ

展示が近いので作品配送に必要な梱包材(気泡緩衝材・・またの名を「プチプチ」)を買って抱えて帰る道すがら、妙に気分が良くなってきた。そしてふと、「この感じ、何かに似ている・・」と思ったのである。暫く考えているうちにその感覚が、

「動く歩道を歩いている時」

と同じであることがわかった。

10メートル巻きのプチプチは結構大きい、でも軽くて楽々運べる。これが、自分が普通に歩いていても常より速く進むことのできる「動く歩道」よろしく、身体的な「自己有能感」を高めてくれるのだ。だから両方とも微妙にウキウキしてくる訳。

この原理を利用した「有能感高めグッズ」を発明しかつ天才マーケターと組んだら、意外に儲かりそうな気がする。でも、自分の関心は美術にあるため、ただ「関係なさそうに見える存在をやや強引に関係させる切り口」を見つけたことに満足した。こういうのは一種の「思考のコラージュ」なのである。



by zelan | 2018-10-31 22:04
2018年 09月 02日

個展案内:「或る女性 A Certain Woman」11月 銀座Gallery Art Pointにて

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2018年 11月8, 9, 10日の3日間、銀座のGallery Art Pointプロデュースにて個展「或る女性 A Certain Woman」を開催致します。
旧作コラージュから新作の絵画、ミクストメディア作品まで30点前後の展示を予定しています。

<展示概要>
会期:
11月8日(木)開廊12時半 閉廊19:30
11月9日(金)開廊12時半 閉廊19:30
11月10日(土)開廊12時半 閉廊17:00
(最終日は閉廊が早めですのでご注意ください。)

会場はGallery Art Point(銀座)、アクセスは以下の通りです。

アクセスマップ:

会期中存廊しております。
お目にかかれますのを楽しみにしています。



by zelan | 2018-09-02 21:26