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原初のキス

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タグ:ゲルハルト・リヒター ( 15 ) タグの人気記事


2019年 05月 16日

才能って何でしょう

人並外れて得意なことがいわゆる才能というものとすれば、自分は「心配」については天才的に才能がある。
以前窓際からカチカチという音がするので天井裏に巨大ネズミが詰まっていると言うイメージを抱いて怖かったことがあったし、風呂の中に落ちていた石鹸を新種の生物と認識したり、クローゼットの中で紙が倒れたらそこに潜んでいた中年のおっさんが転げたのだ、と一瞬で錯覚したこともある。自分の心配を100号の絵にして100連作にしたら、結構なインパクトがあるはずだ。でも、日頃無駄に心配に使っている時間が多く制作にはむしろ邪魔になっているというのが実情である。

こういう意味とはまたちょっと(ていうか全然)違うだろうけど、ゲルハルト・リヒターが、才能がありあまりすぎて成功しない人っていうのがいるんですよという主旨のことを言っていたのが印象深いところ。彼は、自分は必要な適度な程度にしか才能がないと思っているのかしらん。

自分の持ってるいらない才能を見極めて、なるべくそれにかかずらわないってすごく大切なこと。



by zelan | 2019-05-16 21:38 | ライフハック
2019年 05月 12日

ゲルハルト・リヒター "PATH"@ワコウ・ワークス・オブ・アート

ワコウ・ワークス・オブ・アートに世界一好きな作家であるところのリヒター展を見に行く。

大昔知人と自分の間で密かに流行っていたことに、「大きく二つに分ける」というのがあった。
多少分けづらくとも、そもそもその対象物をその観点から二つに分けるのがふさわしかろうがなかろうがおかまいなしに。
この二つに分ける作戦はしかし我々だけが使っていた訳ではないようで、以前あるブティックの男性オーナーが、「女の子はお姫様か女中かの二つに分かれるの!」という主旨のとんでもない発言をしていて笑った。

もとい、アート、特に平面作品を見るとき自分は勝手に「眼派」か「脳派」に大きく分けている。視覚を喜ばせる派か思考を励起する派と言えば少しはわかりやすいだろうか。

で、少なくとも今般の展示におけるリヒターは脳派。

Pathというエディション作品がたくさん展示されてて、どれも森の中の小道風の写真に蜘蛛の巣みたいに細い白い線がさっさっと色んな形で載っている。これを見ていくと、考えることがやたらと出てきて急激に頭が忙しくなった。(因みに自分の場合、実作を見るまで敢えてギャラリーによる解説は読まないので、全部自分で考えたり推測したりしなければならないのである。)

  1. 森の小道の写真が同じか違うか(これを見極めるため前後の作品の間を何十回も目線を行き来させる。この時点で完全に行動をコントロールされてる。確信はないが、多分同じ・・、という結論となった。)
  2. その上に色んな形で走っている、白い線みたいなのは何を使ってどうやって施されたものなのか。
    (視覚的にはどうしてもわからなかったが、途中が点々になったりもしてるしなんか修正液みたいなのをはねさせたという感じがするところもある。)
  3. この白線は下の写真となぜどのような企図をもって組み合わさっているのか。あるいはそう組み合ったものがなぜ選択されたのか。
  4. 線の動きは何か参照している形態があるのか。それともこれを付けた時の動作の中で必然的にあらわれるにすぎない形なのか。
  5. なぜ色々な幅で平行になっている二本の線がしばしば現れる一方、ごく微妙に(じーっと見ないととわからない位に)平行をはずしている線同士があるのか、これは意図的か偶発的か。
  6. 構造的にはOverpainted Photographという写真に絵具を施した別のシリーズに似ているが、それとの本質的違いについてはどう認識しえるだろうか。
等々・・・。

こうかな、ああかな、と思う推測が、1点ずつ見ていく内に勝手に動いていって定まらない。頭の中に、まるで結ばれてはほどけ、ほどけてはまた結ばれそうになる糸が出現したような具合。

大型のガラスの作品も展示されていてこれにもまた興奮する。複数枚のガラスを通して外部から差し込む光と、表面にうっすら写る自分の姿を交互に感じるようで、決して定位できない視覚が生じる。ガラスの向こうを意識すると表面を忘れ、表面を見ると奥を忘れる。向かい合う人か壺に見えるルビンの壺みたいに、ゲシュタルトのまとまりがくるくる転換する。言葉では説明しづらいが、Pathにもそういう機能がある。

ハンモックというものに自分は寝たことがないが、ロッキングチェアには座ったことがある。いずれにせよ揺れるもの、不定ということはある意味で快感だ。
芸術の崇高なミッションの一つとも言えるかもしれないが、この間少なくともあれやこれやのこの世の憂さは、観者の中で捨象される。

ワコウ・ワークス・オブ・アート(六本木)で6月1日まで

(上記の疑問のいくつかは、解説でわかります。)


by zelan | 2019-05-12 20:49 | 展示レビュー
2019年 03月 16日

テープのり、テープかのりか

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自分は文房具入れの引き出しにラベルを貼り、中に何が入っているかを分かるようにしている。
先日「テープのり」が使いたくて棚のところに行ったのだが、「テープ」と「のり」というラベルが別の引き出しに貼ってあってどちらに入っているのか迷ってしまった。
別に二つ開けてみればいいことであって(実際そうして結果「のり」のところに入っていた)、また今後迷いたくないということであれば両方の引き出しに入れておいてもいいし、大層な実害はないのだが、自分はこういう事象に遭遇するとなんだか頭の中がモヤモヤして、すごくヤなんである。

ゲルハルト・リヒターが絵を描くことは言語を使う通常の思考とは異なる全く別の思考の形態であるという主旨のことを言っているが、ふとそれを思い出す。自分の考えではこの立場を取ればテープのりはテープのりなのであり、現実のものを現実そのものとして受け止めるには、言語で文節されない認識の方法もまた、必要なのだ。
テープのりという存在は、純粋にテープでもなければのりでもない。血を出さずに肉だけ切れないように、テープとのりは分けられない。だから個々にラベルを貼った引き出しに分けて入れられないのである。それなのに現前としてテープのりというものが存在するという認知的不協和が、自分をどうしても不愉快にしてしまうのである。

ということで新たに「テープのり」ラベルを引き出しに貼ろうかしら。でもたかだか2,3個のストックに、新たに堂々たる一つの場所を与えるのもねえ・・。


by zelan | 2019-03-16 09:05 | 美術について
2019年 02月 18日

わりとダイジョブ、破壊と絵画

この記事は最終的には当方のコラージュクラスの告知になることを今ここで予告するが、話の発端としては先日、今ひとつ期待通りにいかなかったことがあって機嫌が悪くなり友達にグチっていたら、しばらく黙って聞いていたその人が「でもそれって、わりとダイジョブだよね」と言ったことに遡る。確かに。おいしいものを食しつつ親切な知人にグチを聞いてもらっているという状況自体が、ダイジョブ感満載だ。ダイジョブでなかったら、自分はその頃対応に駆け回っていなければならなかったはずだからである。

話変わって現代ドイツの世界的画家、ゲルハルト・リヒターのビデオ「Painting」。
ネットでトレイラーを見てDVDを買った(悲しいかなPALだけだったのでPALが見れるDVDプレイヤーも同時に買った・・)。

トレイラー:

ここでは彼の抽象作品の制作過程をつぶさに見ることができる。たとえ既にかなり美しいと思える画面であっても、幅広のスキージ(持ち手を付けた板のようなもの)をザザーっと惜しげもなく走らせている。結果、乾く前の絵具が押されて一瞬で画面が相当に変わる。絵具が混ざったり、さっきまで一番表に出ていた絵具が下からほの見えるだけになったり、あるいは完全に表からは消えたり。そしてまた別のスキージの操作で、いきなり表にひっぱり出されたりするのである。リヒター自身が、なんでここにこの色が出てきたんだ、などと言っている場面もある。このスキージ操作は、何十回も繰り返される。

壊すの、わりとダイジョブなんだな、と自分はこれを見て思った。
途中で彼が、「あ(に点々)~、さっき間違ったー!」みたいな発言をしているところもあっておもしろいのだが、結局の処作品は終局(完成)に向かう。彼の言葉の主旨によれば、絵に追加の打ち手を取りうる可能性がなくなった時、とにもかくにも絵は完成する。

作品を制作するとき、「壊す」という行為に関する構えや考え、感情は作家にとってそれぞれで、技法との関わりも深い(ごく乱暴に言えば油絵は破壊に対しロバストだけど薄塗りで色の濁りやすい水彩は壊しづらいとか・・)。破壊、それは時に不可避かつ絵に力を与えるためには必要な場面がある一方で、特に心情的には忌避され、ある場合は勇気の象徴であり別の場合は(どこかのプロセスで過ちを犯したなどの)愚かさの結果と認識される、等々と、なかなかやっかいかつ興味深い存在だ。

リヒターのこのスキージの技法のプロセス上の眼目はしかし、壊すという言葉だけでは語れないところもある。「結果を(ほぼ)不可知にする」というための技法そのものであるように見えるこの操作は、壊しているのか創っているのかさえ不可知にすることで、創造と破壊を同時進行させ作家の仕事をかなり「選択」するということに振り切っているように見えるからだ。

でも以前高名な美術家の方が、ものの見方は使っている技法に影響される、とおっしゃっていたなあ・・自分がリヒターのスキージを上記のように感じるのも、技法のひとつとしてコラージュを使ってきたからに違いない。結局「選択する」ことはコラージュ行為の中心であるからだ。いずれにせよ何かをある程度以上理解し実践することは、多かれ少なかれ新しい目、すなわち「そういうものの見方」を、持つことなのである。

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3月13日と27日は体験会(税込1,782円)です。体験会のみのご参加も可能ですのでご興味のあります方はお気軽にご参加ください。

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by zelan | 2019-02-18 21:43 | セミナー案内
2018年 03月 06日

内心絶叫

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絵はどんなしっかりした心持ちで描いていても途中で汚くなることがある。しかしそこであきらめるのでなければ、汚くなること自体は何の問題でもなく、むしろその過程ができた時にいい作用を及ぼしていることが多い。それを納得するのに10年かかった。
納得とは言うけれども自分の全身が本当に納得しきっているかどうかは、はなはだあやしい。何かの打ち手をとって、それが意に反して一応いい感じに推移していた画面に一見致命的な混乱状況をもたらした時、相変わらず頭の中で瞬間的に、あに点々をふったような大絶叫が巻き起こるからである。

でも制作中のリヒターのビデオを見てたら、「うー、あそこで青を塗ったのがまちがった~!」的なことを言っていたので、この現象は永遠に消えることはないのかもしれない。


by zelan | 2018-03-06 11:29
2013年 02月 25日

リヒターの言葉ふたたび

Picturing things, taking a view, is what makes us human.

というゲルハルト・リヒターの言葉を先にこのブログで引用した。絵を描く、あるものの見方を取るというのが人を人たらしめる、というようなことだと思うが、考えてみたらこのふたつ、密接に関連しているものとして、リヒターは提示しているのだろう。もちろんひとつの文として表しているのだから当たり前のことなのだけれど、最初にこの文を目にしたときは、引用する位だからすごくいいなあ、とは思ったけれども、Picturing things と、taking a view の間の関連については明確には、少なくともちゃんと言語化して認識してはいなかった。

人って改めてものごとを見ると新しい発見があったりする。その機構自体、自分には興味深いものに思える。

by zelan | 2013-02-25 23:46
2013年 01月 12日

ゲルハルト・リヒターの言葉

Picturing things, taking a view, is what makes us human.

といのは、ゲルハルト・リヒターの言葉。

by zelan | 2013-01-12 00:13
2013年 01月 07日

圧倒

それにしてもゲルハルト・リヒターのサイト、圧倒される。超多作、そのクオリティ。この二つには関係があるんだろう。いわば科学実験のように絵画を制作しているし、自らがまるで芸術創造装置のようだ。

リヒターのオフィシャル・サイト:
http://www.gerhard-richter.com/

by zelan | 2013-01-07 00:43
2012年 07月 01日

品格

ゲルハルト・リヒターがなぜ好きかと言えば、彼自身及び彼の作品がすばらしくまっとうで品格があるからで、彼の言うようにまさに「芸術は人間の持つ希望の最高の形態」であることが、見ればはっきりとわかるからだ。自分は美術史家でも批評家でもないから、こういう言い方をあえてする。

例えばブラザーズ・クエイの「ベンヤメンタ学園」だって極めて精緻に感覚・思考を刺激する芸術作品だとは思うけれども、でも結局のところかなりビョーキの人がほかにどうしようもなく表現している、という風に、おおかれすくなかれ作品としては見える訳である。

ところででは、リヒターだったら、自分自身について、かなりビョーキの人がほかにどうしようもなく表現していると感じないだろうか。感じているよ、ととてつもなく明晰な彼であれば、もしかすると答えるかもしれない。

by zelan | 2012-07-01 22:07
2011年 11月 07日

どれだけ

ゲルハルト・リヒターのオフィシャルサイトを見ていつも驚くのは、サイトにあげられている作品だけでも、たとえばOverpainted photographsひとつとっても、ど、どれだけやってるんだ、この人、という感じがすることである。
Atlas
は言うまでもなく。
ひとつの構想やプロセスに対してこれだけやっていれば、意識的というより無意識的なレベルで常に気づいていられるレベルになるだろうという、強烈な説得力が、ある。

by zelan | 2011-11-07 20:06