原初のキス

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タグ:アレクサンダー・テクニーク ( 22 ) タグの人気記事


2014年 11月 01日

いい言葉

以前このブログでも書いたのだけれど、改めていい言葉だと思ったので再録。

Prevent the things you have been doing and you are half way home.

アレクサンダー・テクニークという東京藝大でも音楽家の教育に用いられている西欧の歴史ある身体技法の創始者アレクサンダー氏の言葉。

いままで当然のごとくやってきたことをしないでいられるならば、目的は半ば達成できたも同然、ということ。
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by zelan | 2014-11-01 23:33
2012年 12月 06日

「感じる」と「考える」

東京藝術大学で音楽家の不調の防止や表現力の向上に関する教育にも用いられている、身体技法のアレクサンダー・テクニーク。先日その世界的に有名な教師の一人であるJeremy Chanceの話を聞いていた時、「何かを「感じよう」としているときはほんとうに感じることはない、つまりはその状態は、感じるということについて「考えて」いるにすぎないのだから。」と言ったのでびっくりした。びっくりするもなにも、アレクサンダー・テクニークに公私共にかなりの間関わっている自分はこのことは知識としては知っている、でも改めて聞くと、なぜかとてつもなくはっとするのである。

単なる知識と、ふとした瞬間にはっきり認識する、あるいは常にしっかり認識していることとは違う、さらには、明確に腹に落とした上での「実践」となると、これらはすべて、それぞれ別の次元にあるといってもいい位異なった事象だ。もちろん別に身体技法でなくとも、芸術だって同じこと。
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by zelan | 2012-12-06 00:47
2012年 11月 18日

実感という罠

人間何かをしているとき、大抵のばあいその行為で達成したいことに対し合目的でないことをわんさかやってる。何かやってるように一見見えても、80%くらいのエネルギーは本来「そもそもやらなくていいこと」に費やしていて、何かやりながら実体としてはほぼそれでないことをやってるようなものだ。

でもだからといって、やらなくていいことをやめてみると、なんだか急に「何もやってない」感に襲われることが問題。実は、自分が「やってる」と実感するそのほとんどの感覚を、「やらなくていいことをやってる感覚」に依拠していたということだ。

たとえばの話、掃除機をがんがんかけていると、つい頭を押し下げ胸郭を狭めて不自由きわまりない力んだやりざまになるけれども、そういうとき(必ずしも頭の中で言語化してるとは限らないが)「掃除してるー」という感覚になっている。なぜそれがわかるかというと、そういう不自然な体勢をやめてみるとあまりにすいすい掃除できてしまうがゆえに、「掃除機をかける」という行為が他の生活の諸行の中から別にうきたって見えなくなり「生きることの一部」になってしまい、「掃除機を(こうしてがむしゃらに)かけている(自分って結構エラいよね)」感がなくなってしまうのである。

しかしこの、なくなってしまう感というのは誠によい。なぜなら、何もやってないという感覚はそこにスペースがあることを意味している。つまりほんとうに、こころの底から今やりたいことをやり始められる自由というものが存在し始めるのだ。
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by zelan | 2012-11-18 00:28
2012年 07月 02日

動いても

アレクサンダー・テクニークの世界有数の教師から今日おもしろい考えを仕入れることができた。頭の中で言葉をあやつってさまざまなことを考えているとかなりの場合、身体のコーディネーションが固く、悪くなることが悩みなんだけど、それはもしかしたら、子供の頃に始まった習慣などから、自分が「考える」ということと「動かない」ということをつなげて考えている/感じている可能性があるのではないかということを指摘されたのである。

しかしながら考えつつ動くということはできる。実際教師のすすめでからだをはでに動かしながら「考えて」みたら簡単にできたばかりかおもしろかった。それに動きが仮に目に見えるほどではなくっても、我々の肉体は常に必ず、動いている。

(この先生はワシントン大学で演技パフォーマンス向上等に長く関わっているキャシー・マデンという方。)

http://www.alexandertechnique.co.jp/modules/contents/index.php?content_id=486
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by zelan | 2012-07-02 22:33
2011年 08月 20日

不完全のたのしみ

今日道を歩いていたら、歩くのに必要な以上の力がからだのあちこちに入っているのに気づき、できる範囲でそれをやめてみた。するととむしろ、自分のからだが、単に余計な力を入れている程度ではないさまざまな不完全さやアンバランスを有していることが観察できたのである。

骨盤の右側の方が左より大きくぶれるし、胴体が、特に肋骨の下のあたりで複雑によじれ、そのせいか一歩ごとに右の肩が後ろへ下へとさがる。私はどちらかと言えば姿勢は悪くない方だと言われ、歩くのも速く、ひとから見たら別にどうってことないのかもしれないが、からだが自分の考えている「理想的でないこと」たるや、具体的にあげていったら100項目をくだらないかもしれない。

しかしながらこの不完全さを邪魔せずに自然に発現させておくことは、ときに極めて快適なのだ。これこれの歩き方や姿勢でなければならないというのは誰の頭の中にもある考えだが、それを意識的無意識的に「やってみる」のは、たいていの場合何の役にもたたず、むしろ、既に存在する問題を複雑化させるばかりのことが多い。正しさを知らないから、少なくとも実践できないから今の状況になっているのに、それが意識してみることやあるいは気合いだけで、ほんとうに正しく実践できるってことがあるだろうか。

と、いう訳で何が言いたかったかといえば、不完全であるのは事実であり、認めてみた上でさてここからはじめるのね、と思うと、不完全であること自体が不愉快どころかなかなかにさわやかに嬉々とした趣すらおびる、ということ。
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by zelan | 2011-08-20 23:03
2011年 08月 10日

めづらしく集めている

ものを集めるということが好きな人は多い。どなただったか忘れたが美術コレクターの方が、「コレクターは絵が好きとかそういうことの前にまず、ものを集めるという習性がある」というようなことを言っていたのを聞いたこともある。人類は大きく、集め好きと集め好きでない人々にわかれるような気がする。

自分は、特に形あるものについては集める習性はない。ただ、印象に残る言葉はときどき集めている。
このブログでも書いていく予定。

一回目の人選はいきなりマニアックだ。アレクサンダー・テクニークという西欧の歴史ある身体技法の創始者のアレクサンダー氏の言葉。

Prevent the things you have been doing and you are half way home.

これまでやってきたことをやらないならば、目指すことは半ば実現したようなものだとでもいうのか、そう容易ではないことはわかっていながら、自分にとってはなぜかこれが希望の言葉なのである。
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by zelan | 2011-08-10 23:19
2011年 04月 15日

しない、あるいは、やめる

自分が関係していてこのブログにもときどき書いているアレクサンダー・テクニークという西欧の伝統ある身体技法は、「しないこと」の重要性を説いている。
これがどのくらい革新的なことなのかは、我々がいかに常に何かを「すること」、今やっていることに何かを「加えること」が、自分の目的達成に対し重要かと、無意識的に考えているかを思えば、明らかだ。まあ、無意識的と言うだけのことはあって、人はなかなかそれには、気づかないのだが。

ウォルター・キャリントンという有名なアレクサンダー・テクニークの教師の言葉に、以下のものがある。「何が間違っているのか気づくのが難しいことはめったにありません。しかし、それを今すぐ何とかしたい、正したい、という衝動が即座に、必ず生まれてしまうのがまさに危険で、あっという間に間違ったことをしてしまうのです。」

しない、あるいはやめる、ということが、極めて理に適った選択肢のひとつたりうるということを、覚えておいて損はない、はず。

と、たいそう抽象的かに見えることを考えたきっかけはと言えば、少々疲れて、ソファに座って10分程おとなしくしていたら、突然びっくりするほどのエネルギーがチャージされた、という経験をしたという、ただそれだけの、ことなのだけれど。
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by zelan | 2011-04-15 11:44
2011年 03月 10日

息をすること、わかること

最近知人と、ふとした時に不必要に息をとめていることがあると話していたのだが、自分が関わっているアレクサンダー・テクニークという身体技法で関連のコラムを書いた人がいて、これは音楽家向けに書かれているものの大変参考になる。

呼吸は腹部中心に考えがちだが、全身でしている。

読んでいるだけでラクになるのだが、アレクサンダー・テクニークのレッスンの経験があるからということもある。改めて考えなければ知っていることすら忘れていることは多い。呼吸は全身でしている、とかもこの類。からだは全部つながっているから、言ってみればあたりまえだが、普段そうは感じないし考えない。

やってみなければ、体験しなければ、「理解する」ということの端緒につくことは多くの場合、ありえない。またその理解も、デジタルなものでなく、じわじわと、ディテールや深度を変えながらわかってくる。そういうところが、「理解」に関しておもしろいところで、これが端的に現われるのが、身体というものに対する理解である。

ホルン考:ホルン吹き「バジル」のブログ。考えるホルン。Thoughts about horn playing
http://basil-horn.blog.so-net.ne.jp/2011-03-10
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by zelan | 2011-03-10 11:24
2011年 01月 08日

DoingとBeing

Doingとはすること、Beingとはあることである。
Doingの前にBeingがある、Doingの中にも。

Doingで成果を出すためには、まずしかるべくBeingがなければならない。
順番について言えば、単純にそういうこと。
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by zelan | 2011-01-08 23:54
2010年 11月 26日

右ひじ

このところ右ひじの前腕外側の筋肉が、ものを取ったりするときほんの少々痛くて、数日自分のからだの使い方など観察してみると、すべてではないにしてもひとつの重大な要因というものを発見した。
いつも使っているバッグから財布を取るとき、財布をしまっているポケットが少し小さいがために、結構力を使ってひっぱり出しているのである。

とはいえ、だいたいの場合バッグを右肩にかけていることとか(ときに左にもかけるようにしてそれに慣れるなら右側の負担はやや軽くなる)、財布を取るときにもう少し上体もその方向に向けたり、自分の場合今よりもやや親指や人差し指側に力を入れるとか、そもそもポケットの口の大きさが財布に合ったものを使うとかすればこの結果は今の通りにはおこらないであろう。ものみな因果関係の網の中にあるので、何かの条件が変われば、結果も変化していく。要はその因果関係のなにがしかに対し、必要があるときに、意識的になれるか否か、意識的になることを、選択するかどうか、ということだ。

そういえば以前小笠原流礼法というものを学んでいたとき、どうしようもないときを除いて「ものを手探りで探す、取る」ことの下品さというものを教えられたのが印象に残っている。手探りというのは目線も、体軸も、動作や動作が目的としている対象に対してうまく沿っていないことが多い。たとえばこういうささやかな動作の積み重ねで、からだはすこしずつ傷んでいく。一日とか短い単位でいえば、数ミクロン程度の変化かもしれないけれど。

そういう意味では、「大事」は常に「今」にある。
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by zelan | 2010-11-26 00:50