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原初のキス

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2019年 05月 13日

装丁展での感想

以前、美しい装丁の展示を見たことがある。来ていた人誰もがとても喜んでおり、これ素敵、あれも素晴らしいなどと盛んに評していて、作品も結構売れていた。
自分は少し羨ましく思った。本の装丁における人々のリテラシーはおそらく絵画に対するそれよりも随分と高い。絵についての、知識に基づいたあるいは自分なりの評価軸を持つことは、現状美しい本を見分けるよりも難しいことには違いない。



# by zelan | 2019-05-13 13:42 | 芸術鑑賞
2019年 05月 12日

ゲルハルト・リヒター "PATH"@ワコウ・ワークス・オブ・アート

ワコウ・ワークス・オブ・アートに世界一好きな作家であるところのリヒター展を見に行く。

大昔知人と自分の間で密かに流行っていたことに、「大きく二つに分ける」というのがあった。
多少分けづらくとも、そもそもその対象物をその観点から二つに分けるのがふさわしかろうがなかろうがおかまいなしに。
この二つに分ける作戦はしかし我々だけが使っていた訳ではないようで、以前あるブティックの男性オーナーが、「女の子はお姫様か女中かの二つに分かれるの!」という主旨のとんでもない発言をしていて笑った。

もとい、アート、特に平面作品を見るとき自分は勝手に「眼派」か「脳派」に大きく分けている。視覚を喜ばせる派か思考を励起する派と言えば少しはわかりやすいだろうか。

で、少なくとも今般の展示におけるリヒターは脳派。

Pathというエディション作品がたくさん展示されてて、どれも森の中の小道風の写真に蜘蛛の巣みたいに細い白い線がさっさっと色んな形で載っている。これを見ていくと、考えることがやたらと出てきて急激に頭が忙しくなった。(因みに自分の場合、実作を見るまで敢えてギャラリーによる解説は読まないので、全部自分で考えたり推測したりしなければならないのである。)

  1. 森の小道の写真が同じか違うか(これを見極めるため前後の作品の間を何十回も目線を行き来させる。この時点で完全に行動をコントロールされてる。確信はないが、多分同じ・・、という結論となった。)
  2. その上に色んな形で走っている、白い線みたいなのは何を使ってどうやって施されたものなのか。
    (視覚的にはどうしてもわからなかったが、途中が点々になったりもしてるしなんか修正液みたいなのをはねさせたという感じがするところもある。)
  3. この白線は下の写真となぜどのような企図をもって組み合わさっているのか。あるいはそう組み合ったものがなぜ選択されたのか。
  4. 線の動きは何か参照している形態があるのか。それともこれを付けた時の動作の中で必然的にあらわれるにすぎない形なのか。
  5. なぜ色々な幅で平行になっている二本の線がしばしば現れる一方、ごく微妙に(じーっと見ないととわからない位に)平行をはずしている線同士があるのか、これは意図的か偶発的か。
  6. 構造的にはOverpainted Photographという写真に絵具を施した別のシリーズに似ているが、それとの本質的違いについてはどう認識しえるだろうか。
等々・・・。

こうかな、ああかな、と思う推測が、1点ずつ見ていく内に勝手に動いていって定まらない。頭の中に、まるで結ばれてはほどけ、ほどけてはまた結ばれそうになる糸が出現したような具合。

大型のガラスの作品も展示されていてこれにもまた興奮する。複数枚のガラスを通して外部から差し込む光と、表面にうっすら写る自分の姿を交互に感じるようで、決して定位できない視覚が生じる。ガラスの向こうを意識すると表面を忘れ、表面を見ると奥を忘れる。向かい合う人か壺に見えるルビンの壺みたいに、ゲシュタルトのまとまりがくるくる転換する。言葉では説明しづらいが、Pathにもそういう機能がある。

ハンモックというものに自分は寝たことがないが、ロッキングチェアには座ったことがある。いずれにせよ揺れるもの、不定ということはある意味で快感だ。
芸術の崇高なミッションの一つとも言えるかもしれないが、この間少なくともあれやこれやのこの世の憂さは、観者の中で捨象される。

ワコウ・ワークス・オブ・アート(六本木)で6月1日まで

(上記の疑問のいくつかは、解説でわかります。)


# by zelan | 2019-05-12 20:49 | 展示レビュー
2019年 05月 11日

展示のリアル ~ クリムト展@東京都美術館

都美術のクリムト展へ。

展示は行ってみないとわからない。足を運ばない限り、作品やそれに対する自分の反応のリアルを経験する術はない。チケットやポスターなんかに印刷されてる作品に最も感動するとは限らないというのもひとつ典型的現象だ。個人的には今回の場合もしかりで、自分はバーンとしたこれ、「ユディトⅠ」
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ではなく、最初の方にあった初期の小さな肖像画「レース襟をつけた少女の肖像」がえらく面白かったのである。(こちらのサイトの中程に図像がある。)
理由は単純で、同じ画題で隣にあったフランツ・マッチュの絵と比べたから。

マッチュも素晴らしい画家ではあるが、本作品に関して言えばクリムトと並べると、後者による少女の顔を見ているときのみ自分は、あー、この子この後どんな人生を歩んだのかしら・・となんかちょっと感情移入し心配になったりしてくるのだった。なんだか人生の普遍的重みみたいなものが現れてて、マッチュのきれいに描きましたこの絵も少女及び画家の当時の状況も特に問題ありません、というのより、イメージの時間的広がりのある表象内容に刺激されるというか・・しっかりとひっかかったのであって、そこで自分は表現というものについて、少しばかり脳を使わせてもらったのである。

あとはオイゲニア・プリマフェージの肖像なんかの、背景とメインモチーフがとけ込むように、装飾的意匠でつながっていて必ずしも人体部分が目立ってないのが、クリムトがどんな人格だったかはっきり知らないにも関わらず、これやるのそこそこコワかったんじゃないかしら、と思った。
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以前高名な作家の先生がふと、「絵には種々のお作法がある」とおっしゃりそれを聞いた自分は震え上がったことがあった(今もそうかもしれないが昔は更に構図だの色だののお作法を知らずかつ、お作法には基本絶対に従わなければまともに作品は作れない、と信じていたからである。今は前より随分図太くなったが)、クリムトの生きていた当時だってメインのモチーフをしかるべく浮き立たせるというのは基本のお作法だったはずだ。それを日本の影響だったかなんかも含めてあったと思うけど、確信犯的に平面的に処理していくときのクリムト氏の内面状況はどうだったであろうか、と、勝手に想像した次第。まあコワおもしろい、といった風だったかもしれないけどさ。もしかしたら関連の文献が残ってるかもしれないし、学者さんや評論家さんは調べてからもの言う必要があるが、自分はそのどちらでもないので、「感想」として述べさせて頂く。

ところで一緒に行った知人が、全体として、「もっと明るいところで見たかった。」と言っていたのも面白い。金箔を用いたものなど、確かに光があればずっとピカーッとして楽しかったはず。為政者のお城の中とか、教会なんかの中に置かれているのが主の絵とは違うだろうとは思う。でも個々の作品に最適な光の状況ってのは違うし、作品保全の問題もあるから、結局の処美術館で見るような絵画の展示におけるリアルは、残念ながら担保されてない要素も大いにあるのである。

東京都美術館(上野)にて7月10日まで


# by zelan | 2019-05-11 22:52 | 未公開
2019年 05月 09日

やる気がないからといって生産性が低いとは限らない

先般ひどくやる気のない日があった。

あれもこれもそれもやらねばいけないことが山積しているのに、どうにも体が動かない。そうやってずるずると日を過ごし、夕方ぐらいになって、その日ない力を振り絞って無理やりやったことを振り返ってみたら、意外や意外・・・一週間くらいのばしのばしにしていたことが片付いていたり、絵画制作上の技術的課題に解決策が見出せていたりと、決して本当にいわゆるところの「効率」が悪かったとは言えない状況であることを知ったのであった。

つまり、非常にやる気がなかったが故に、自主的にさくさくあれやこれやに向けて動くエネルギーが枯渇していて、やるべきことの中の重要なことしかできなかったようなのだ。つまりは余計なことをしなかったということ。

と、一瞬感動しかけた自分だったが、考えてみたらこんなことぐらい中学生の頃に気づいておけばよかったよトホホ・・。だって子供の頃だってやる気のなかった日々はたくさんあったはずなんだから!

やる気があるとかないとかなんぞに振り回されて暗くなったり明るくなったりとムダなエネルギーを使ってきたのはまさにムダだった。
でも気をつけていないとこれからもそうなりかねないので、気をつけておくことにしよう。



# by zelan | 2019-05-09 21:53 | 制作心理
2019年 05月 09日

やる気雑感その2

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やるぞーという気合みたいなものは何事においても基本不要なんではないか、という仮説を自分は持っており、以前書いたこともある。やるぞーというのは物理的側面としては筋肉の緊張を伴っていると思われる。そうして比較的気合がないとできないことをしようとしている場面で現れやすいことも勘案すれば、そういうそこはかとない不安とも関わっていて、緊張だの不安だのそれらがなくなれば気持ちも楽になりパフォーマンスもあがるんじゃないかしら、と考えているのだ。

ただし、やるぞーという気分が好きな人というのもいるようで(仮にアドレナリン系と呼ぼう)、そういう人は思いっきりやるぞ感を楽しめばいいと思う。
脳科学の苫米地英人さんという人が、感情って現代人にとっては一種の娯楽として楽しめばいい、というようなことをおっしゃっておられて目から鱗だったが、アドレナリン系の皆様は存分に楽しめばいい。

でもそもそもやるぞって、感情なのかな。どっちかって言うと肉体的な感覚に近いような気がするが、無理やり感情と関連づけるなら喜怒哀楽でいったら何なんだろう・・・。
相手(仕事など)をやっつけてやる、みたいな点からすると、微妙な「怒り」感覚も混じっているような気がする。

(図像 レオナルド・ダ・ヴィンチ)


# by zelan | 2019-05-09 21:22 | 制作心理
2019年 05月 08日

時間にも質量がある ~上野の森美術館大賞展

明日をひらく絵画 第37回 上野の森美術館大賞展へ。

ずーっと見ていくと、なんとなく落ち着いた気分、というか、やや過剰にまったりした気分になっていく。個々の作品故というより、力を込められた主には100号級の大きな絵がずらっと並んでいるという、単純にその物理的圧力もすごい。

そう感じつつ一番大きな部屋でぐるっとまわりを見渡した自分は、これが書の展示であればこの圧してくる感じは少なかろうとふと思った。余白が多いとか少ないとか、色彩とかを越えて、かかっている「時間」は一つの質量である。
これらの絵を描くのにかかった時間を総計すると、どれ位になるだろう。入選142点で2万時間位かな。このあたりの根拠はごくごく雑駁だが、実勢上フルタイムアーティストでない人も多いだろうので1点あたり3時間/日X1.5カ月X142で推定。でもそうすると起きてる時間全てを使って一人の人が全部描いたとして3年半か・・それぢゃ無理な気がする。ということは恐らくもっとかかってるのだ。

絵を描くって自分が思っているよりすごく大変なことなんぢゃないんだろうか・・という思いがよぎって少しコワくなった。
もちろん全てがそういう作品でなく、抜け感のあるさっぱりした作品も時々あって、そこで息つぎをしながら歩いていったが、主として技法、そして体力・気力や趣味嗜好等々の理由から大きい画面も爆速で描くという向きの戦略または制約のある自分からすると、この時間的圧力はもう異界に迷いいったという感じすらしてきたのであった。

外に出たら急に動物園を見たくなりそちらに歩を進めたが、100メートル程前から門に「休園」という札がしっかりかかっているのが見えてがっかりした。ほぼ30年ぶりに動物園に入りたくなった理由は謎である。


# by zelan | 2019-05-08 08:32 | 展示レビュー
2019年 05月 06日

人間代表

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明後日5月8日(水)に目黒学園カルチャースクールにて、連続講座の一環として<「モナリザ」をテーマに ~ 素材の意味を「変えて」みる>という講座を行います。
ロシアの評論家シクロフスキーの提唱した異化概念(見慣れたものをそうでないものに変える)などを引き合いに、なんだかもうしっかりとモナリザはモナリザなの!と当人が主張しているかのような体のモナリザをコラージュによって変貌させられないかと言うことに、生徒さんと自分で挑戦する予定。

ちなみに、自分は結構な数モナリザをモチーフとする作品を作っているが、自分にとってモナリザは単に「人間代表」である。生まれたばかりの赤ちゃんはともかくとして、たまたま誰でも知っているという人である故に、それが出てくるといかにも人間だなーという感じが無意識的にも起こるような気がして。人間代表として人間の諸相を描くには最適なのではないかと、勝手に思っている訳。

それはともかく、モナリザはデュシャンは言うまでもなくラウシェンバーグやバスキア 、ジャスパー・ジョーンズ、あと誰だっけ、そうそうバンクシーなんかもモチーフにしている。しかしその中で自分が最も好きな作品はラウシェンバーグによるものだ。
ここに画像がある。

左上の、モナリザの顔がヴィーナスにすげ替えられてるってるのが特にシビれる・・。あとその下の見づらいが相撲取りのマゲとか・・。

5月8日(15:30 - 17:00) の講座は単発でも体験受講可能です。
ご興味のある方は目黒学園カルチャースクール(03-6417-0031)までお問合せください。

(図像 是蘭「倦怠の対価」)





# by zelan | 2019-05-06 23:28 | セミナー案内
2019年 05月 06日

水の中の宝石

庭園美術館でキスリング展をやっている。以前彼の絵画をギャルリーためながで見た際に、「水の中の宝石」と感想を述べたことがあるけれどもまさにその通り。濡れ色の豊かな響き。これらの作品を見ると、美しい色の感受も心身にとってのひとつの明確な「栄養」であることがよくわかる。

東京都庭園美術館(目黒)
7月7日まで




# by zelan | 2019-05-06 08:13 | 展示レビュー
2019年 05月 05日

既知と未知

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4月末に終了した美の起原でのグループ展示には、多くの方々にご来廊頂きありがとうございました。
今般の展示で複数名の方から作品について、暴力的であると言う言葉を頂き、それは面と向かって明るく言われているが故に思うに非難ではなく(別に非難方面にだって自分は完全にオープンですが)むしろありがたいお言葉だ。
なぜならば誰が作るものであれ作品は多かれ少なかれ人の感覚に対して侵入的であるということが条件だと自分は考えていて、更に、今ちょっと調べてもわからなかったので非常に曖昧な記憶なんだけど、「O嬢の物語」の作者のポーリーヌ・レアージュがどこかで、夢の中で恋人を殺すなんて何ほどのこともないみたいなことを言っていたように、思弁的あるいは芸術的暴力というものはむしろ現実的暴力に拮抗したりそれを減衰させる力なのかもしれないと思っているからである。

さて、一部の絵に言葉を載せておいた。半透明の膜で貼ってあったのでサブリミナルにはともかくしっかりと気づいた方は少ないかもしれないが、それは次のような文(を英訳したもの)である、<往時、統べる者は巨大な体躯をしていた。彼らですら行く手を阻む風には難渋していたが、ついにそれを制御する術を覚え、以来彼らの肉体は我々弱き者と同様のものとなっていったのである。>

分かっているから作るのではなく、作るからわかるという側面の方が常に大きい。
しかも作ってもわからないことが延々とある。最近自分は人類史とか科学技術史に興味を持ち始めているのを意識していて、絵にこうした文を入れるに至り更にそうした興味が強化されているような気がするが、本当のところはよくわからない。
自分の中では常に既知と未知とがせめぎ合っている。 その接点のところに我々が作るものは位置している。そうして今「我々」と言ったように、これは自分に限ったことではない普遍的なことなのだ。

(図像 是蘭「風の牽制」)



# by zelan | 2019-05-05 15:27 | 制作心理
2019年 04月 28日

考えるスキル

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考える時に絶対やってはいけないこと、それはギリギリと一所懸命力んで考えることであると自分は思う。

むしろ何と言うか、フワーンとした感じでテーマの周りをさまようような、体もゆったりと力を入れずに広角レンズで思い巡らすの風がいいのではないかと思う。

そういうことを学校では決して教えてくれなかったのでいい歳になってからやっと気づいた。
クリティカルシンキングだのロジックツリーだのフレームワークだのの諸々もいいんだけど、それ以前に身体技法みたいな領域のスキルというものもあるのではないかしら。

教育というものがもっとずっと洗練されていったらこういうことなんかも教えてくれるのかな。
あるいはこのあたりは自分で発見していくということに本質的な面白味があるのかもしれない。




# by zelan | 2019-04-28 22:07