原初のキス

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2019年 01月 13日

リペルアート(1)~ 基本

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渋谷Hikarie並びのウエマツさんと言えば戦前からやっている老舗の画材店だが、こちらで販売されているリペルという画材シリーズを縁あって探求している。これがまた、「油絵具」とか「アクリル絵具」とかのレベルで標準描画材になってもいいのでは・・と思ふ程興味深い。

基本は
 ・リペルペーパーという水分を吸い込まない性質の用紙に
 ・リペルという液剤を塗布し
 ・その上からマチエという液剤を垂らす

材料たち:紙はリペルペーパー、黒いのがリペル、白いのがマチエ
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リペルをボトルから紙に垂らして、又は皿に入れるなどしてから筆で塗布
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乾く前にマチエを垂らすと化学反応?で模様が現れます。
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リペルには各種ありマチエ(カラーもあり)との反応で種々の図像ができる。リペルの塗布の厚みやマチエの量なども結果に影響。
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この画材の開発企図は「美術の裾野を広げる」ことであると聞き及んだ。確かに、使って易しく目に楽しい。
一方、流体のふるまいにきっかけを与え、制御し(完全には制御しきれないが)、選択し、定着させるという通常の粘度のある絵具とは異なる機序が、作り手である自分をふと我に返らせるところが個人的には興味深い。どうして図像をそこで選ぶのか、自分がおもしろいと思っているものは何で、それは正当なものなのか、等々である。なぜなら、それはかなり根本の問いなのだから。




# by zelan | 2019-01-13 17:15
2019年 01月 10日

突破口何を突破するか占い

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以前、「模造紙、何を真似てるか」という記事を書いたが、自分は時々、語源が気になることがある。
どうも新年で抱負づいていたからかもしれないが、先日も「突破口って、そもそも、何を突破するのかしら」と、思ったのだった。

昨今何でもネットでさくっとわかるものだが、これについてはあまりすっきり説明してあるものがなく、ただ戦闘的な場面における「敵陣への」侵入口をものすることに関係することはぼんやりわかった。理解としてはぼんやりだったがしかし、この「敵陣」という概念に自分はぐっときたのである。

話転じて私はいわゆるところの占いが嫌いだ。
理性の終焉をもってソレが出張ってくるとまで思っており、あまりものをはっきり嫌うという性質ではないにも関わらず占いだけはユルせない存在としてテキシしている(漢字で書かないのは占い好きの人に攻撃されないように最初から腹を見せているつもり・・人それぞれの好みもあろうし)が、世にあるゲームっぽい心理占い的なものはさほどテキシはしていない。それでいくと、「突破口と聞いて、どんな状況で何を突破してると思いますか」というのはいいお題かもしれないと思った。

なぜなら自分の場合どういう訳か、「突破すべきものは自分の側にある」、と思っていたからである。
簡単に言えば、状況打破において不合理な性格だの習慣だの信念だの、自分のカラだのワクだのそういうこと。
でも「敵陣」かー、なんかいいではないか。目標がくっきりしてるし、敵陣に突破口をあけられるということは自分の側の問題はいい具合に解決してるか、あるいはその問題だと思ってたものは敵陣突破にはクリティカルなものではなかったのだから。



# by zelan | 2019-01-10 15:31
2019年 01月 08日

アイデア

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今面白いアイデアが浮かんだのだが、決して「修正」をせずに果たして満足できる作品ができるだろうか。

 「できる」というのが自分の答え(仮説)である。

なぜなら、「修正」というのは明確に、多くの場合あまりワークするとも思えない「心の構え」であって、実際は何か違うなー、と思ったらその状況から発して「新たな手」を打てばいいからだ。


# by zelan | 2019-01-08 22:25
2019年 01月 07日

ZOZO私感

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ZOZOの前澤氏の一億円お年玉について今日TVを見ていたら色々と意見が交わされていたのだが、いずれもその行為についての毀誉褒貶であって(いわゆる広告費の使い方がうまいとかどうかとか、ブランドイメージへの影響等を含む)、フォローしたりリツイートしたりした人々についてはあまり意見が出ていなかった。

個人的にはそれにノっかるのは思いもよらぬことで「なんか美的ではないなあ・・(資本主義的なるものと少なくとも自分が感じるものに踊らされてるみたいで)。自分がリツイートしたら自分を知ってる人なんかはどのように想ふだろうか・・」という感想だったのだが、この意見を振り返っていると、「ぢゃ、宝くじ買う人は美的ではないのか?」という疑問につきあたった。ま、宝くじを買っても(自分は買ったことはないが)、黙ってたら人には知られない、というのはあるかもしれないが。

要はこの事案というのは、適当に感覚的に感想を言うのはともかく、論理的に多方面から個人的社会的影響なども含めていいだの悪いだの言うのがなかなかホネである

と、いうのが結局の処自分の感想だった訳です。


# by zelan | 2019-01-07 23:35
2019年 01月 05日

企図というもの

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自分の小さな頭で考えるような企図、その思い通りになってしまったら絵なんかできないのに、どうしても思い通りにすることをまずは、そして過程においても多かれ少なかれ継続的に追ってしまう自分。

そうして、思い通りではなかった(が故に)作画上良きことが現れると、

そうだ、具体的な企図を計画通りに実現することをもって、良きことってあまり現れてこないのが常なのだ、と気づくのである。


# by zelan | 2019-01-05 22:18
2019年 01月 03日

信じない


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信じるとは明らかに、不確かなものに対する態度である。
なぜなら既に知っていたり、はっきりと理解したことについて、人は信じるという言葉を使わないからだ。
「うちの犬の名前はマロンであると信じる」と言う人はいない。

でも考えてみたらそんなことを言い切ってる自分、めちゃ色んなことを信じている。
例えばメモしておかなければ、重要なことを忘れてしまう、と「信じ」ているので、有害な位にデジタル及びアナログのメモとりまくっている。友達から電話があって、40分後にXX駅の改札ね!と言われてもすぐさまポストイットに時間と駅名をメモし、PCのモニターの上辺に貼ってしまう位、病膏肓に入った状態のメモ魔なのだが、これまでの人生で殆ど(ゼロとは言わないが)、待ち合わせの約束を忘れたことはないのだ。制作のアイデアメモなんかも、いつか創るかも、いつか役に立つかもというもくろみの下、化け猫みたいに9回生まれ変わっても創れきれないくらいたまってる。

メモをとるのを3日間だけでもやめてみようかな・・・コワ。
清水の舞台から飛び降りるような気持ちでそれに取り組めば、もしかしたら新たな超時短人生が開けるかもしれないのに、その可能性をまだ十分に「信じて」いないために、その行動が取れないのである。信じることの弊害は、必ずそれに関わる行動というものが岩盤のように形成されて、容易には変更できないことである。

なんらかの手段により信じているものを書き換える、というのもアリかもしれないが、自分の好みとしては、できることなら「何も信じない」方面に進みたい。
だって何かを「信じる」って、本当に、現実的に、それがないと何もたち行かない位に、必要かなあ?
人間はなんでもすぐに信じちゃうので、その全体を「悪行」と捉え、気づいたらすぐさま信念の断捨離にいそしんだ方が、いいのじゃないかしら。

言うはやすし行うは難しではあるが、請け売りではあるがブッダが容易に「信じる」ことを戒めたことがあったそうである。即ち、

 言い伝えられてきた、評判になっている、お経に書いてある、理屈や常識に合っている、自分の考えや信頼できる人(ブッダ自身も含め)が言っている

ことだからといって、信じてはならない、自分で確かめろと。
私なんかさほど評判には左右されないけれど理屈、自分の考え、尊敬できる人・・のあたりはかなり心許ない。

それにしても、特に初期仏教ってそもそも宗教と言えるのだろうか。これを見ると、宗教だと「信じて」たのが間違いなのかも。


# by zelan | 2019-01-03 20:28
2019年 01月 02日

逆抱負

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先日地下鉄に乗っていたら、地下鉄関連の工事か看板のかけかえか何かの業務に携わる方々が、色々な工具や器材を持って数人乗ってきた。
入口近くに立っていて客が乗降するたびに道具類の入った大き目のバッグを邪魔にならないようずらしたりしている。
そのうちのひとりが、俺たち、座ってる方がよっぽど迷惑にならないよなあ、と言い、仲間の人たちもそうだよね、と、とほほという感じて笑っていた。確かに車内はすいているのだから、道具を足の前において座ってもらった方が、キマリはともかく、今この状況においては、明らかにいい。

別の日、都内のある美術館の二階で自動販売機のお茶を買い、その近くにある椅子は固そうで嫌だったので10歩程展示場の入り口に向かって歩いたところにあるソファに持っていって飲んでいたら、年配の守衛さんが近づいて来て、あの、こちらではお飲み物はお持ち込み頂けませんので、と丁寧な口調で申し訳なさそうに言われた。ふ~ん、と思い「なぜですか?」、と聞くと彼の返事は「そういう風に決まってますので」だった。
その答えはちょっとこちらの質問の主旨とは違ったので「えー、なぜそういう風に決まっているのですか。」と別に感じ悪そうにではなく純粋に論理的な興味を持って聞いてみたら、守衛さんは少々どぎまぎして、「そういうルールなんです。」と重ねて質問に対する答えになってない返事をした。
「んー、聞いといた方がいいですよ、理由。」と笑いながら言う私の前で、守衛のおじさんのどぎまぎは頂点に達した。気の毒なので私は固い椅子の方に移動。

という同じような事例を二件たて続けに経験したので、記録しておく。

今「逆抱負」という言葉を思いついた(新年なので抱負づいている)。できることならやらないでおこうという事柄であり、その一つを「思考停止」にしようと思う。(あー、やっぱり抱負が抽象的!)

守衛さんが(似たような役割で)登場している別の過去記事:
2010年4月25日 穴に落ちた話




# by zelan | 2019-01-02 21:28
2019年 01月 01日

抱負の顛末

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新年なので抱負を申し述べたいと思った。そこで、その前に「抱負」で自分のブログ記事をサーチしてみた。
該当記事は4件、その中の1件は抱負というものについて思い出を語っているだけだったので、具体的な抱負について述べてるのは3件でそれは次のようなものであった。

2017年:仮説から検証へというサイクルを回していく
同じく2017年:冷え性の改善
2010年:今の自分をはるかに凌駕する素晴らしい人間になる・・・それが難しそうなので、とりあえず早寝早起き

う、うーん、上記の中の比較的具体的な冷え性も早寝早起きも実現しておらず、抽象度が超絶高い、仮説から検証へというサイクルを回していく、と、今の自分をはるかに凌駕する素晴らしい人間になる、は、良く言えば後退はしておらずそこそこは意識をしているものの、アリが15歩歩いた程の進歩しかしていないような気がする。

でも自分はあきらめないのである。「仮説から検証へというサイクルを回し」続け、「今の自分をはるかに凌駕する素晴らしい人間になる」を今年も抱負とする。(コーチングやカウンセラー、NLP方面の、あるいはビジネス書の執筆者連からは激しく糾弾されそう・・・。マイルストーンなんかも決めてみるか。)

皆様がどのような抱負を抱こうと、その抱負が実現し、益々幸多き楽しき年でありますように。




# by zelan | 2019-01-01 23:34
2018年 12月 30日

コラージュとはさみ

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かなり以前にコラージュを始めてからのち、何年もたってから、はさみを小さいのに変えた。
それまではゾーリンゲンのそれなりに切れ味のよい普通の大きさのものを使っていたが、小さくて刃もほっそりしたものに変えたら、とんでもない位切るという作業が効率的かつ精緻にできるようになったのであった。

今から思うになぜもっと早く気づかなかったんだバカバカ・・と思うが、とにかく全然気づかなかった。
ストレートなコラージュの素材は多くの場合印刷物から取るので、紙のサイズはあまり大きくなく、かつ、作品であるのでその切り取りの精度はある程度以上高く保たねばならない。とすれば、素材の細かい稜線を切ることのできる小さくて華奢で小回りのきくはさみがいいに決まっているのに・・!

恐らく、ゾーリンゲンで大きな不服がなかったのがいけなかったのだ。
こういう状況が進歩においてはごく問題。携帯電話がなかった頃凡人たる自分は、待ち合わせの場所に知人が現れなかったらうちに戻っておっとり刀で固定電話の着信を待つか、自分で掛ける、ということをやっていた。より便利な状況というものが思いもよらなかったので。
明確な不便や不服といったものは、通常逆に我々の眼を覚まさせてくれるものだ。

もとい、それにしてもなぜ小さい鋏がいいと気づいたのか、自らハッとしたという記憶もなければ人に教わった覚えもない。
ただ鋏といって思い出すのは昔、裁縫用の糸切ばさみ(握り鋏ともいう文字通り握ってすぐ使える例のなんというかカニのハサミ状の・・)で全てのコラージュの素材を切っていた人を見たことだ。
これには心底驚いてしまった。もしかしたらそこで、ゾーリンゲンだけが解でない、という思考上の可能性が開けたのかもしれない・・・。


# by zelan | 2018-12-30 08:54
2018年 12月 29日

太るのか痩せるのか

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知人と食事をしていて、自分が比較的「丸飲み系」であることに気づく。同じものを同じ量口に入れても、飲み込みが自分の方が非常に早い。
「だから太れないんぢゃないの?」とは知人の言。確かに、元々頑健でなく当然胃腸も弱い自分が(これも噛まずに飲んでる結果かもしれないが)咀嚼しないで飲み込んでたら栄養が容易には吸収されない可能性は十分ある。

で、ネットで調べてみたらこれが、噛むと痩せる説と噛むと太る説が拮抗してるんですね。
噛むと痩せる説の中には、どこかの大学がよく噛むと噛まないのに比べ消費エネルギーが増えるので痩せる、とまぢめに実験してるのがあったが、自分はこれには申し訳ないけど笑ってしまった。食べる人の胃腸の能力という重要な変数が全然考慮されてない。丸飲みしても消化できるような早食い肥満系の人がよく噛めば噛むのに費やした消費カロリー分は痩せそうだが、胃弱の骨皮筋右衛門(て最近言わない)がよく噛んで胃に優しい状態で食べ物を吸収したら、太るんじゃないだろうか。

と、いうことで目下の自分の結論は、太ってても痩せててもよく噛むことには益がある、ということ。
この仮説があたってればの話だが、同じクスリ(よく噛むこと)が見かけの状態の違う人(太ってても痩せてても)に効くなんて、ちょっとした万能薬だ。

ええっと・・、加えて少し観念的なオチをつけるなら、何かが真実であるか否かは、噛めば痩せるか太るかという変数がひとつの単純な命題では大体の場合解きえない、他の状況との関係性がまさに「関係」してくる。なぜならすべての現象は他との関係によって成り立っているからで、そうした中、変数いっこなんてありえないんじゃないだろうか。



# by zelan | 2018-12-29 08:07