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原初のキス

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2019年 05月 31日

考える

自分が「考えている」と思っていても単に頭の中で感情がぐるぐる回ってるだけにすぎないことがある(というか結構多い)。また、日本語で「感じる」というのは感情を感じているのと感覚を感じているのの両方が含まれる。

ということで、自分が日々考えたり感じたりしているな、と思っても、色んな状態が存在する。殊に冒頭の文のように、考えてるつもりで感情だけ動かしているのは、生産性という意味ではなんだか相当にムダなことのような気がする。

では人間はいつ、本当に「考えて」いるのかな。自分にとって実はそれが大きな関心事だ。



# by zelan | 2019-05-31 23:23
2019年 05月 29日

リテラシー

美術作品が、いわゆるところの誰の目にも明らかに「美しく」なければならないかと言えばそれはそんなことはないのであって、ただひたすら「ほんとう」であることの方がより必須の条件である。でも、美しい方がわかりやすいという向きもあることは事実だ。ほんとうかどうかを見極める方が、100倍くらい訓練がいる。


# by zelan | 2019-05-29 20:41 | 美術について
2019年 05月 28日

下がってから上がった話 ~ 福沢一郎展@東京国立近代美術館

困ったな、と自分は思った。竹橋の近代美術館でやっていた福沢一郎氏の回顧展最終日に駆け込みで来場し、初期のコラージュ的絵画作品から後期の神話や現代風刺をモチーフとする大作までほぼ全ての作品を見終わる頃合いになっても、自分にしては珍しく、どの展示でも考えたというよりも天から自動的に降ってくるがごとくの「感想」が思い浮かばなかったからである。

つらつら考えていたら理由はわかった。何のことはない色彩と質感がシュミではなかったのだった。自分はどちらかといえば冷たくて人工的な色やペラッペラのマチエールを好むのだが、氏の作品は違っていた。この稀代の名画伯の作品を前にそれこそ薄い感想であり、冷静に分析的に見れば種々の感想は十分出るはずとも言えるが、評論家ではないということはさておいて自分にとってはなんらか自作の参考にするために人の作品を見るという動機が大きく、こういう仕儀となったのである。

一方そのあと常設展を見ていて、作家の名前忘れてしまった・・・と言うかメモしたけれどどこにいっちゃったんだろう・・海外の人の作品でシャボン玉に顔料を入れてそれを吹いて紙の上でパチンと割れた時に残った図像を並べてある連作を見て、やたらグッときてしまった。自分も似たようなことをやったことがあるし、技術的構想的にこの人は非常に詰めている。いいではないか。

と、いうことで企画本展の方で個人的に勝手にー5点ぐらいに下がっていた自分の気持ちは一挙にプラス250点方面に跳躍した。やっぱり展示は行ってみないとわからない。そこで何を得るかはほとんど神の采配といってもいいくらいだ。

そうしてこれがいったい鑑賞論と言えるかどうかはわからないけれど、作品はまず一義的には趣味か実利で見るという立場をあくまで個人的にはお勧めできる。実利の部分はそれぞれの人が決めればよい。
誰にとっても実利であるところの例として、「運動」になるというのもある。回転寿司みたいにベルトコンベアに乗っかって絵が流れてくるわけではなく、自分の方が歩きますからね。目の保養をしつつ足腰も鍛えられる、これはかなりの実利。



# by zelan | 2019-05-28 15:42 | 芸術鑑賞
2019年 05月 26日

途中

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パーツの素材を作ったがまだ組み上げてない。
作っているものはしばしば、初期や途中の方が自分にとっては良く見えることがあり、一方その場で決めちゃうと粗い時がある。でもあーだこーだが始まる前に決めた方がいい時も多い。難しいような面白いような点。

(図像 是蘭 work in progress)


# by zelan | 2019-05-26 11:34 | 制作心理
2019年 05月 24日

Beauty

美しいものが人間に創れるというのは、完全なる幻想だと思う。
だから自分は、「美しくしよう」と志向して創られているのを感じる作品をあまり好まない。


# by zelan | 2019-05-24 21:17 | 美について
2019年 05月 22日

エフィカシー

最近、苫米地英人さんていいなあ・・と突然思い(今までは何故かなんとなく敬遠していた・・)、動画など見始めている。エフィカシー即ち自己効力感を高く保ち、ちょっと意に沿わないことがあっても「あれ、自分らしくないな」と思ってすぐに次のなすべきことを着々としていくというのは、美術制作者とか起業家とかその類の人々にとっては特に、実用的にワークするワザかと思われる。

# by zelan | 2019-05-22 21:35
2019年 05月 19日

プロセス探偵完敗すの巻 ~ 北山善夫展『事件』@MEM

展示に足を運ぶ大きな理由の一つに、制作プロセスについて想像し、刺激を受けるというのがあるが、本展オープニングに行って最初の作品を目にした自分は、その前で長時間凝固してしまった。

・・作り方が、全然、わからない。

それは例えばこのような作品なのだが、小さい点のようなものやその他の形態が密集して種々動勢の上を濃淡を含みながら、支持体のほぼ全面に配されている。更にどの作品を見ても、自分の全然わからないは継続するのであって、極めつけは少し区切られた奥のスペースに展示してあった、大量の泥人形のようなものが折り重なったり絡んだりと大変なことになっている作品だった。泥人形の集団を自分は見たことがないが、その像が異常に「精確」であることは何故かわかった。そこで連想したのは、「写真」である(ただしマチエールは全然違う)。全作に共通してそれらの相貌としては、一瞬または時間の超越(即ち永遠)を感じさせ、また明確に異界風なのに、なぜか恐ろしく現実的。

しばらく観察していた自分はしかし、プロセス全部が人力(じんりき)の訳ないよね、と一応のところ結論づけた。なぜなら、人が手だけでやるものとしては単位面積あたりの情報のビット数があまりに巨大で、これが達成できるのは自然による「現象」か、あるいは疲れを知らぬ装置などがまさに機械的に生成するこれもまた別種の「現象」だけであろうと感じたからである。
デジタルと人力の複合技法かとも思った。特殊なメディウムも用いて転写とかはじきとかが活用されているかもしれないし、イメージの形態とか質感自身にもデジタルを感じさせるところがある(恐らく均質・精緻とか精確性といった印象の側面で)。キャプションを見たらインクとあって、出力を一部用いていたってインクはインクだ、と自分を納得させるが、どうも感覚的に腑に落ちない。で、実際は全て北山氏の手によってのみ作られていたのである。

通常、案内のイメージだけ見て展示に向かい、展示が気に入れば解説を後で読むということをしている自分は(であるからして大変高名な北山氏のような方を寡聞にして知らないまま会場に行くという・・)、こういう時大変得した気分になる。作品という事件の主犯格は概ね二人いて、それは構想とプロセスなのだが、その主にはプロセス面を探偵する自分は、その場で事件が解決しない方がよほど嬉しい。

これらの作品は、一瞬と永遠をショートさせているの感がある。芸術には時間がない。芸術にとっては一瞬も無限も同じである。というか、良き芸術は真実を扱うが故に、真実には時間がなく、時間があるのは人間の側だけ、ということか。

図録も買ってきたがまだ読んでないので、盛大にあさってのことばかり言ってないか少し心配だ。しかし心配症の自分にしては珍しくこういうことについてはさほど心配しないのであった。自分が感じたり考えたりしたことは、これはこれでまごうかたなき一つの真実なのである。

MEM(恵比寿)
6月16日まで


# by zelan | 2019-05-19 22:54 | 展示レビュー
2019年 05月 16日

才能って何でしょう

人並外れて得意なことがいわゆる才能というものとすれば、自分は「心配」については天才的に才能がある。
以前窓際からカチカチという音がするので天井裏に巨大ネズミが詰まっていると言うイメージを抱いて怖かったことがあったし、風呂の中に落ちていた石鹸を新種の生物と認識したり、クローゼットの中で紙が倒れたらそこに潜んでいた中年のおっさんが転げたのだ、と一瞬で錯覚したこともある。自分の心配を100号の絵にして100連作にしたら、結構なインパクトがあるはずだ。でも、日頃無駄に心配に使っている時間が多く制作にはむしろ邪魔になっているというのが実情である。

こういう意味とはまたちょっと(ていうか全然)違うだろうけど、ゲルハルト・リヒターが、才能がありあまりすぎて成功しない人っていうのがいるんですよという主旨のことを言っていたのが印象深いところ。彼は、自分は必要な適度な程度にしか才能がないと思っているのかしらん。

自分の持ってるいらない才能を見極めて、なるべくそれにかかずらわないってすごく大切なこと。



# by zelan | 2019-05-16 21:38 | ライフハック
2019年 05月 14日

ポピュリズム

昨今、世界的に見ればポピュリズムが台頭してきてヤな感じではあるが、今日ふと、ブッダが「世の中はあべこべである」と言ったことを思い出す。

2600年位前から、「世の大勢」の考え方なり感じ方なりというのは、世界平和的観点から適切なのと不適切なのに大別すれば大抵の場合不適切な方に寄ってしまうのであろう(だって我々は多くの場合利己的で煩悩にまみれているから)。そういう基盤のある上で「操作」しようとすれば、その方面の嗜好なり実行力のある人々にとっては容易なはずで、そうして世の中全体が不適切な方に更に寄って行ってしまうのではないかしら。


# by zelan | 2019-05-14 21:41 | 社会について
2019年 05月 14日

流れる ~ 書家による抽象表現展@ギャルリー志門

「書家による抽象表現展3」(ギャルリー志門)オープニングへ。

制作者の内面について他者が推測してもハデに外すということはありうる訳だが、個人的には制作の主体を自然のエネルギーに意識的に、いい意味で委譲している作家群という感覚を大いに受ける。
別の言い方をすれば、我々(日本人として自分も含めてそうだ)、自然の現象がアプリオリに持っている、流れや変化を作る力をレバレッジして結果として美を現しめようと志向し、そうして、現象と瞬時に対話しながら、実際にそうする、その心性が深くあることを再認識したのである。

墨を使っても絵具を使っても文字をモチーフにしても、これらの作品に共通する情緒というのは一種の、自然を尊重し尊敬した上での「流体技法」という趣きだ。現象も人間の側も共に動き流れていますからね。その状況のスナップショットという感じ。

と、いうのはあくまで「感想」である。こういう感想に理論武装せよ、と言われたら、学者さんになるしかないが、向いてないのでやめておく。自分がこうだと思ったり感じたりしたことに、歴史的文化的背景に関する証拠を集めたり、それに基づいて論理的に組み立てたりするのが申し訳ないがめんどうという、残念なタチなのである。

ギャルリー志門(銀座)
5月18日まで




# by zelan | 2019-05-14 09:37 | 展示レビュー