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原初のキス

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2019年 03月 25日

イチローの引退会見と言葉とアート

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言葉と同じ土俵に乗らないために美術をやるという感覚が私にはあるが、そういう人は少なくないのではないかと勝手に思っている。

自分の場合、言葉の、「表現」する力に対する疑念というよりも、「制約」や「強制」する力に対する恐怖からという方が正しい。ピンクの象を思い浮かべるな、と言われても途端に脳内で見えてしまう訳だし、解剖学的に肩という独立した存在は規定しづらくそれは機能や動きとしては腕の一部に過ぎないとしても、肩と言われればそれが実質的にも存在するかのように感じてしまうとか・・・。そんなふうに言葉の持つ一種の呪術的な力によって、少しずつ少しずつ物の本体と認識がずれていき不正確なものが正確で実体的であるかのように感じられていってしまうのだ。

一方、というかそういう認識を持っているからなのか、言葉を見事に使っている人々を見るととても心を動かされる。

最近の例。イチローの引退会見における「人望発言」には泣けた。
彼は自分には人望がない(だから監督はムリ)と言ったのだが、この発言をもって彼が「人望」というものの定義をぐぐ~っと大胆に拡大していることは明確である(だってイチローに人望がない訳がない)。しかもその上で、彼ほどの求道者であれば確かにいわゆる処の人望に関連するものを捨象しなければならない場面があることもよくわかるのである。定義を拡げてそれでもわからせる、これってアートじゃないかしらん・・。

アスリートのアート発言(今勝手にそういうジャンルを作った)と言えばもう一つ近々の例がある。先日スケートのプルシェンコがテレビで、彼には一つ後悔があって現役の頃ある試合で「人に勝とうとしたこと」だというような趣旨のことを言っていた。これを聞いた自分はこの次に出る言葉が人ではなく自分に勝つ・・・みたいなことなのかな、と思ったのだが、あにはからんや彼は、人に勝とうとするんじゃなくて何のために滑っているのか目的に思いを馳せる、ということを言ったのである。人と自分、でなく人と目的というこの非対称性、これにも自分はグっときた。

一流のアスリートというのはスポーツという場で即ち常日頃から完全に現実というものに直面している。自分のメンタルをも含む現実を観察しその中で(アートとは違って)明確に定義された結果を得ることを訓練されているのだから、いつも「現場・現物・現実」。それがこうした言葉の重さの源泉なのではないかと思う。




# by zelan | 2019-03-25 23:05
2019年 03月 24日

コラージュ制作体験会 3月27日(水)目黒学園カルチャースクールにて

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今を去ること20年程前、自分はふと思い立ってラウニーというイギリスのメーカーのパステル木箱入りを何万円かを投じて買い、花瓶に生けた百合の花を勇んで描き始めた。
結果は「ムフー・・(不満)」というものであった。描写の鍛錬をせずにいきなり取り組んでいるのだから無理もないが、何日も何十時間も苦しんだ挙句セミプロ級の知人に見せたら彼は笑いながらざくざく手を入れて、10分もたたない内に絵としておおよその格好をつけてくれた。がそれはもはや自分の作品ではなかった。

それから暫く月日がたち、北川健次氏と言う高名な銅版画家で今も日本のコラージュでは第一人者である方の下で勉強を始めた私は、最初の宿題で生まれて初めてコラージュを作った。
一発で大変にうまくいき(と少なくとも当時は思った)、自分は嬉しくなった。
今でもその時作ったイメージをはっきり覚えている。暗い夜を背景に緑を帯びた荒れた海があり、そこを目隠しされた大きな白馬が赤い豪華な鞍を付けてザブザブと進んでいる、というものであった。馬っていうのは大変に水を怖がるもので、水たまりひとつ超えられない。海辺を走っている馬なんてそういう風に訓練されてるだけよ、と乗馬をする知人から聞いたことがあったが、作品を創りながらその話を思い出していたかどうかは忘れた。

いずれにせよその時、もうそこに(自分の外に)世界はあって、それは自分が興味を持てば少しこちらを向いたり遊んでくれたりする、ならば、苦しみながら世界そのものやその要素を作ろうとするのはやめて世界に遊んでもらうという道の方がいいな、と、思ったのである。

その後色々あって今ではそこまで単純に考えている訳ではないけれど、コラージュという技法は、すぐに始められ、自分の感覚を喜ばすことのできる成長を素早く実感できる。
人が作るものというのは1から10までその個人の技術的心理的人格的自画像だ。だから自分が20年前に書いた百合の花だって立派に自画像だったのだが、コラージュはよりストレートに迅速に具体的イメージとして、自らの関心やセンス、そして非言語的な脳内の象徴作用等々につき、創ることを通して知ることができる。

本体験会は目黒学園カルチャースクール4月期「初めてのコラージュ」6回連続講座の体験会として以下の通り開催致します。体験会のみのご参加も歓迎しますのでご興味のあります方はお気軽に同校までお申し込みください。
コラージュの歴史・道具の使い方・作り方のポイントをご教示し、小品を実際に制作します。

日時:3月27日(水) 15:30 – 17:00
費用:1,782円 (税込)
場所:アンセルモ教会教室集会室(目黒)
お申込み先:電話03-6417-0031


# by zelan | 2019-03-24 14:55 | セミナー案内
2019年 03月 23日

マチエール採集の収穫 ~ FACE展 2019

これだけ種々様々なイメージが世界中に氾濫し、特にネットの普及によって容易に手に入る今、なぜ実際の展示に足を運ぶかといえば自分の場合それはマチエールを見に行くという目的がかなり大きい。
マチエールを見れば則ちプロセスが類推できることも多く、参考になったりするのではというはっきりした下心がある。マチエールばかりはモニターで見ていても正確には分からない。なぜならそのイメージは必ずやモニターの表面の素材のマチエールになっちゃってるのだ。その素材の奥から光が照らしているという、これが結局は我々がネットから見る全てのイメージの表面ということになる。

前置きは長かったがVOCAよりは更にこれぞ平面という形の作品の有名コンペ、FACE展 2019(損保ジャパン日本興亜美術賞展)に行った。グランプリの庄司朝美氏の作品の前に進んだ私はおお!と思った。思いもかけず作品がアクリル板にマウントしてあったから(いやガラス絵みたいに裏から描いてるのかも・・)。ネットやポスターでさくっと見ていた時は、書いてあったかもしれないけど気づかず、前に立って初めてその強力にてらてらっとした表面・・普通の意味でのマチエールとちょっと違うがいずれにせよマチエールだ~それがまた中央で上下2枚を継いである、に気づき、そしてその奥から強度のあるイメージが表のアクリル板といい具合に互してこちらに迫ってくるのを愉快だと感じたのであった。

イメージ自体も面白い。大抵の絵画は空間的時間的に、それとつながってどこかしらに存在する全体における部分であると自分は思っているが、そうしてまた特に具象絵画においては、「これの外、あるいはこの前後の時間どうなってるんだ・・」と思わせるものが個人的には好きなんだけれどもそういう意味でもこの作は面白かった。

作者の方には多分何か想定している物語はあったかとは思う、そして今ネットで調べたらそれに対する言及がある可能性もある。でも自分は調べないのである。
先日あるカンファレンスの懇親会で初対面の男性と話していて、たまたま自分が「何か疑問に思った時ネットで調べると結構すぐ答えが出ちゃってつまらないのであえて調べないんですよ」と言ったら彼が、「あ、それ最近流行ってるんですよね!」と返してくれた。そっか流行ってるのか・・・それはなかなか喜ばしいことのように思う。というわけで今回もその戦略を取ることにした。自分で想像する方が楽しい。

3月末までです。



# by zelan | 2019-03-23 15:12 | 展示レビュー
2019年 03月 22日

VOCA展2019で震え上がるの巻

上野の森美術館のVOCA展2019へ。
感想を述べたいが「かんそう」になりそう。作家さんが33名もいるので感覚的にせよ総括してまともな感想など言えない。
があえて総括するとあまり明るい感じはしなかった。明るくなくて勿論いいし質とは関係ないし、全員が自分の勝手な定義で明るくなかった訳でもない。大体理由もうまく説明できないのだ。(ちなみに翌日同様に平面の著名コンペFACE展2019に行き、こちらはあまりそういう印象はなかったな・・。)

この印象とも関わるがある事件があった。
他と軽く区切られた展示空間にあった作品に近づいていった際、それが人の死体様のものを描写してあると見て取り、生来そういうイメージに耐性の低い自分ははっきり見る前に撤退したのだが、「あれって現実からの描写?それとも創作?」ということがどうしても気になってわざわざ作品の側に戻り、絵を極力見ないようにしつつキャプションの解説だけ読むという生まれて初めての行動を取った。すると、「現実か創作か」みたいなことが書かれていて微妙に安堵し・・・しかしまさにその術中に落ちた、ということを経験したのである。

美術は感覚に対し多かれ少なかれ侵襲的なものなのであることは認める(全く日常の感覚になじんぢゃったら、そもそも作品の意味ないよ・・)。そして件の作家さんはそうしたテーマを追求しておらるるのだが、事前に美術館サイドが警告を貼って注意喚起をして頂きたかった。
好きで足を運んだ会場だが不意打ちで見たくないものを見るかもしれないというそこまで了解していない。昔ある著名なコマーシャル・ギャラリーでも同様の刺激的図像が並んでいて、目の焦点が完全に合う前に逃げ帰ったことも思い出す。その種の作品については、見る見ないの選択肢が与えられずに不意打ちはいかにもきついのである。(ところで自分は会田誠さんの一部の過激な作品のイメージに対しては一度も震え上がったり嫌悪を催したことはない。考えてみたらそれはそこにある作品としてのフィクション性の質とその感受が、自分の神経を守ってくれているのだ。)

と、いう中で私が極私的オーディエンス賞を授与させて頂くのは田中真吾氏の焼いたベニヤ板と角材を組み合わせた大きな作品だ。板を端から焼いた黒と地色の明度のムラが、五木田智央さんの絵のようである。スカっとしてて、よかった。うれしくなった自分は、側に近づいていって匂いも嗅いでみたが、予想した程焦げたにおいはせずかすかに感じるだけだった。事前に干して?おいたか消臭剤様のものをバンバンかけたのかしらん・・。
同展には、絵画に寄った写真、写真に寄った絵画、なども多かったが、これは絵画をほんの少し擬態した彫刻というべきか、ていうかつまりは立体作品だ(笑)。

そう、「平面の作家たち」の登竜門であるVOCA展では高さ20センチ以下は平面と見なす、ってことになってるんだ!それより、「平面なるもの」を作家・推薦者サイドが定義せよという方向もある気がするがどうして20センチなんだろう?その20センチの元は何が参照されてるのか?これとか、40歳という微妙な年齢で出展者の条件がある点など(勃興する20代とかならまだハッキリする感じだけど。40歳すぎたらゼツボー的と言ってるみたいな)、それらの点が個人的には脳への刺激としてとても面白いと思い、暗かった気持ちがちょっと明るくなったのであった。

本展示は3月末までです。




# by zelan | 2019-03-22 21:03 | 展示レビュー
2019年 03月 22日

機能

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人が常日頃、それが「常日頃」と言っていいくらいに本当に見ているか、本当に感じているかはあやしい。少なくとも自分には自信がない。
美術は見たり感じたりすることをやや強制的に発動させるというねらいと機能を持っている。つまり私たちを、少しだけ正気に立ち返らせてくれる。


# by zelan | 2019-03-22 15:01 | 美術について
2019年 03月 21日

ビジネスとアート

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絵画とか芸術一般と「感性」の働きというものは、創るにせよ鑑賞するにせよ当然のことながら本質的な要素である。
しかし特に創るという自分の基本的な立場からすると、ヴィジョン・集中と選択・技術とその差別化・情報と知識の収集と取捨選択・自分自身及び関係する他者のマネジメント等々制作や発表における諸々はむしろビジネスの世界でより精緻に体系化/整理されていて、自分は絵画の技法書も買うが「美術のために」ビジネス書をその5倍位は買っている。

最近ビジネスの世界のアートへの関心が高まっていて、その際しばしばアートを感性の側面から主には特徴づけるという場合が多いが、自分は上述の認識もありアートに関し感性に代表させるラベルは貼りづらいと感じており(実の処それ以外のラベルを貼るのも難しいのかもしれないが)、いずれにせよビジネスとアートは基本はイーブンに補完的なものであろうと思っている。

ビジネスとアートと言うと印象としてまるで西洋医学と東洋医学の関係みたいに聞こえたりもするが、これらの差よりずっと、ビジネス(の特に経営層の目線や技能)とアートの距離は近い。


# by zelan | 2019-03-21 23:40 | 美術について
2019年 03月 19日

クッキーを買って混乱するの巻

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クッキーが食べたくなって買った。その袋にはでかでかと「ゲランドの塩」使用と書いてあった。裏を見てみると使用されている食塩の中の「13パーセント」がそれということであった。自分はそれでかなりのリテラシーが消費者たる自分に要求されているように感じた。15でなく13であるところも印象的である。
極端な例で言えば100円ショップで買ったアクリル絵具の「あか」にリキテックスの例えばディープブリリアントレッドを13%混ぜて、明確に違いがわからねばならないということだ。

しかし確かにそのクッキーは美味しかった(し、上記の例の絵具の違いもわかるような気がする)ので、自分にはその感覚的リテラシーがあったのかもしれない。でもこれってむしろ相対的比重としてはかなりマーケティング戦略的なことだったのでは、とも思え、クッキーを買ったばっかりに自分の頭は多少ぐるぐると回転してしまったのである。

追)その後、この13%はもしかしたら「ふりかけて」いるのではないかと思った。だとすれば最初に味わうのは純粋ゲランドの塩だ。普通の塩とまぜて中にも外にも使うより、要求されるリテラシーも少しは減る・・。


# by zelan | 2019-03-19 21:17 | 感覚について
2019年 03月 19日

起床して夢から覚める

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自分がいつ自らの描きかけの絵のその時点での現実に気づくかといえば、起床直後である。
寝ている間にいろんなことが整理された脳と疲労物質が分解されて刷新した肉体、この二つを持って朝しょっぱなから結構な失望に襲われるという訳。嫌になる位それの繰り返しだが、人間の心身にそういう機能が備わっていることは、前に進むためには僥倖というものだろう。

そしてここでこの言葉を引用するのもおこがましいというものだけれども失望はしても絶望はしてはならない、ということ(明石康・元国連事務次長の言葉)。

(図像 是蘭 Work in progress)


# by zelan | 2019-03-19 09:39 | 美術について
2019年 03月 18日

組み合わさない

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コラージュなどで素材を「組み合わせる」と普通に言うが、実際の処組み合わせるというより互いに干渉させる、という方が正しい。

(図像 是蘭「地上の舟」2010)


# by zelan | 2019-03-18 21:23 | コラージュ
2019年 03月 17日

最近のコレクション

その作家は非常に力がある人で自分は美しい展示場所で100号ぐらいの絵がばんばん展示されているのをずっと見ていった。
気に入ったのは見かけが固定化しておらず非常に多様なこと(抽象である)。マイクロコンセプトとか技を狭く先鋭化するのもいいが、作家の一貫性を提示しつつ、これ位物理的に同じような見かけや色彩にこだわらない作家は珍しく感じる。最後に数点小品があって、その中にも大作で確認したエネルギーの反射を十分感じたので購入。自分の資力と住居環境ではさすがにジャンプしかねるが、大作も比較的リーズナブルであると思われる。

この作家は門田光雅氏。展示場所は先般もアートフェアをやっていたパークホテル東京(汐留)で、記事が遅ればせになり門田氏の展示は終了済だが内容等詳細はこちら。
https://www.parkhoteltokyo.com/artcolours/vol27.html

もう一つの点として、美術作品を見る場所としてのこのホテルは秀逸だ。アートのプロジェクトも継続して行われている。
ホワイトキューブもいいがマホガニー色やグレーのしっとりとした空間で廊下のガラス貼りの展示スペースの奥にある近づきがたい良品を見ていると、こうした場所もギャラリー同様まさに絵画を見る場所だ、と感じるのである。


# by zelan | 2019-03-17 10:06 | 展示レビュー