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原初のキス

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2009年 12月 22日

2009年12月22日 全体と部分、前と後ろ

洋服のもとは布、即ち平面だが、服は人のからだに沿うものなので立体である。
フランス大使館で開催中のアートイベント、No Man's Landの中で一昨日行われたクチュリエ鈴木道子と音楽家Benjamin Skepperの、洋服制作と音楽の即興パフォーマンスを見た。

ボディの後ろからかけた布をなだめるというか、てなづけるようにして肩や肩甲骨のラインが創られていく。布って伸びるものだと実感する。やがて襟や袖ぐり、ウエストのくびれ、そしてコサージュやベルトなどのディテールが次々生まれ、2時間程で一着の服ができあがる。
服の制作過程を見ると、普段無意識に袖や襟、前身ごろ後ろ身ごろの集積で服ができ、それを自分が着ているように思うが、実際は当然ながらからだに沿った一つの服がまずできて、そこから初めて部分を分離させ(型紙などで)、また統合して服ができていることがわかる。

全体が先で、部分が後、あるいは全体の生成過程において一拍遅れて部分が分かれてくる。
絵も、部分に着目して全体の構造をその部分に整合させようとすると、難しくなることが多い。

ところで後ほど鈴木氏に伺ったところでは、またこのパフォーマンスもそういう印象だったが、服は「背中から創る」と言われるそうだ。とすると背中を創った残りの布が前にまわってきている構造だけど、服を買うときは前側ばっかり気にするのがおもしろい。

Benjamin Skepperの音楽も、典雅さや激しさなど情緒の変化を巧みに制御しつつ、一貫して「冷たい」のがとてもよかった。私は表面的な見かけはどうあれ、冷たいこと、そっけないことがアートの質としては好きだ。それはその作品が、何かにあるいは誰かに迎合しない、作品自体の独自な生命力をもっていることの、ひとつの証である。

# by zelan | 2009-12-22 08:28
2009年 12月 21日

2009年12月21日 「いいねえ、せまい世界で生きるって。」

・・と、文脈は忘れたがいつか友達のひとりが言った。
その人は、せまい世界で生きている人ではなかった。
でも、別に嫌味で言ってるふうでもなかった。

# by zelan | 2009-12-21 00:22
2009年 12月 20日

2009年12月20日 理想の恋人

彼は高貴な家柄の出、長身でものすごくハンサム、物事の道理に通じ、言行は完璧に一致、決して動揺せず常に慈しみの心で接してくれ、その上私が迷妄から醒めてより利口になるよう導いてくれる。

どんな人がタイプですか、と女性に聞いてもあまり意味はない、どんな答えであれそれを言っているときの、女性の態度にほんとうの情報がある、と以前の記事に書いたが、男性からたくさんこの質問をされている知人の出版プロデューサーの女性が、とりあえず「ブラピ!」と答えておく、と言っていた。私なら上述の人物、すなわちブッダと言う。

しかしここまで言ったら、男性にはちょっといぢわるな感じがするかしらん。
だいたいこういう人格は恋人というより、相当の努力の上それでも実現の確率はかなり低いが、自分自身の理想形。

# by zelan | 2009-12-20 00:06
2009年 12月 19日

2009年12月19日 コンセプチュアルな上海カニ

京橋 INAXギャラリーのガレリアセラミカで、福本歩展 -フクモ陶器 晩餐会-を見てものすごくウケた。
陶芸の作品なのだがひとつだけ紹介すると、「ケーキ付きいちご皿」というものがあり、皿の上にショートケーキも一体となっていて(つまりケーキ部分も陶器)、元来苺がのっている場所が少しだけくぼんでいる。そこに実物の苺をのせると本当のケーキを前にしたときのような豪華な気分が味わえる、とか。本物は苺しかのらないので確かにケーキ付きの、「いちご皿」である。この伝でいけば豆腐付き薬味皿などもよさそう。

あたりまえと言えばあたりまえだが、コンセプチュアル・アート(と他意はないのですが、そのようにくくっていいでしょうか、福本さん・・・!)は、コンセプチュアルと言いつつ実行が要である。

先日ある中華料理店に入った際、壁に「上海カニ、入荷し ました」というA4サイズ程の紙が貼ってあり、きれいな水色の地に赤字で書いてあるので目立つことこの上なく、さらに水色の一部がなぜか不定形に濃くなっており、これが意匠的なものか、単に誤字などを訂正しようとしたものか、わからない。そして「入荷/しました」でなく「入荷し/ました」とやや不自然な場所での改行。そもそも上海カニ、でなく上海「ガ」ニ、でないのか、などと疑問満載だ。
これを50号位に拡大して細密に描いたら、結構インパクトのある現代アートだと思ったが、私はコラージュの制作で忙しいので、実際することは、できない。

だからやっぱりアートは、やらねばならない。考えているだけでは、アートにならない。単なるコンセプト。

福本歩展 -フクモ陶器 晩餐会- (INAXギャラリー ガレリアセラミカ 12月21日まで) 
http://www.inax.co.jp/gallery/ceramic/detail/d_001522.html

# by zelan | 2009-12-19 00:06
2009年 12月 18日

2009年12月18日 絵画史上最強美女

女の恋人をつくったことはないが、女にほれたことはある。
会社に勤めていた頃、PCのサポートに来てくれた女性が、設定のためにデスクトップPCをさくっと持ち上げてひとりで運んで行ったのに素敵だなあ、と強い印象を受け、たまたま翌日彼女を食堂で見かけたときに、すごくどきどきして、かなり本気で好きなことを自覚した。
あと、指揮者の西本智実さんの容貌が好きで、テレビなどに出ていらっしゃると、思わず目を皿のようにして見いってしまう。

前置きが長かったが、カルロ・クリヴェッリ(伊 1430-1495)の「マグダラのマリア」が大好き。
マグダラのマリアと言えば悔い改めた娼婦、キリストの恋人とも目される女性で、いわば女性原理の代表選手のような方。
クリヴェッリの描いた彼女の、とかげのような冷たい眼、むしろ絶対に悔悛しそうにない生意気な面差し、宝石をつけたうねうねの長い髪、でもすごく頼りなくて悲しげで助けを求めているような雰囲気(実際頬に涙が流れているみたい)に、大変にときめいてしまい、図版を見て何日たっても彼女の顔がちらちらする。

まったく私見であるけれど、彼女に絵画史上最強美女の称号を、与える。

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# by zelan | 2009-12-18 00:30
2009年 12月 17日

2009年12月17日 つじつま

つじつまを合わせようとしたとき、絵は死ぬ。
つじつまとはつまるところ人間の都合だが、絵は自然の原理に沿って動いているから。
絵の都合が一番大事で、自分がこのモチーフが好きとか、疲れたとか面倒とか、「美」が現れる前にとりあえず作品として「成立」させたいと焦ったりとか、そんなのまったく関係ない。

ものを創る人は、基本このことはよくよくわかっていると思う。でもわかっているつもりでも違う思いがすべりこむのであって、いつの間にか自分の都合を優先したりしている。

わかっていてもできないあるいはやらない、このことが私にとっては大きな謎で、それを解明することは、制作をやる重要な理由のひとつだ。
なぜならそれがはっきり見えたならば、自分の制作物のみでなく人生全般の質が、格段に向上するはずだと、わかっているから。

# by zelan | 2009-12-17 00:02
2009年 12月 16日

2009年12月16日 可能性

コラージュは眼と脳に対する刺激を創るものだから、画面には常にある程度刺激が溢れており、制作中の画面をじっと見ているとその刺激に慣れすぎてわからなくなる。
だから見てるような見てないような横目で見る感じで創るのだ。画面そのものを見ている時間より、そこに置く素材を見て選んでいる時間を意識的に長くしたりもする。また、画面を見ているときですら、視覚に入り込むというよりからだの軸の感じはどうかとか画面から音が聴こえるか否か(聴こえない方が私はいい)など、他の感覚に注意を注ぐようにする。
見つめすぎないというこれは結構何年もやってから気づくようなノウハウだけど、でも、じいっと見ても感覚さえ冴えていれば、むしろいいものが創れるかもしれない、という可能性もまた、頭のすみに置いておくことにする。

# by zelan | 2009-12-16 00:04
2009年 12月 15日

2009年12月15日 魔女かミューズ

男性はわるい女の人につかまるとわるいことをしてしまい、よい人がそばにいるとよいことをする。
男性のアウトプットに対し女性は相当の影響力を持っており、だから女性が歴史を創っているのだ、と、知人男性と話をした。
自分はどっちかな・・・と、いう絶対的なものがあるのではなく、大概の場合は、誰かとの関係において魔女かミューズかということになるだろう。だって絵を描くとよくわかるけど、すべては関係性の中にあって、例えば単独で美しいとか汚い色がある訳でなく、他との関係においてしか美や醜は生じないのだから。

# by zelan | 2009-12-15 00:03
2009年 12月 14日

2009年12月14日 6月になると

「6月になると雨の日に葉っぱの上にのっかってる貝殻状のものって、何て言うんだっけ。」
「・・・かたつむりでしょ。子供のときガラスに這わせて、裏から粘液の軌跡を見て喜んだりしてたよね。」
「したした。」
「粘液あれだけ出してよく乾かない。」
「梅雨だもの。」
「でも梅雨だけ生きてるわけじゃないしさ。ところでかたつむりってどれ位生きるんだろう。1年位かな。」
「いや、5年から10年だと思う。」
という会話を友達と交わし、Wikipediaで調べてみたらかたつむりの寿命は詳しくはわかってないようだが、1年から数年らしい。他にも色々書いてあったがおおかた忘れた。ただ、かたつむりには寄生虫がいることがあり、体に侵入すると眼や脳など中枢神経を目指すため危険なので触ったらよく手を洗うこと、と書いてあったのが、こわかったので覚えている。

最後にかたつむりを見てからもう何年もたった。

# by zelan | 2009-12-14 00:03
2009年 12月 13日

2009年12月13日 河口龍夫展 言葉・時間・生命

東京国立近代美術館に、「河口龍夫展 言葉・時間・生命」を観に行った。

闇を金属の箱に閉じ込めて'Dark Box'とか、原始的な風貌の岩にいかにも現代な蛍光灯を突き通す、とか、生命や発展の象徴である種子を鉛で覆う、とか、なんだか図式的にすら感じるコンセプチュアルな作品群で、え、こんなんでいいの?とある意味衝撃。モチーフAに非Aを対峙させる構成が多くて、他者性とかアウフヘーベンとか、ゆらぎ、ずらしなど、コンセプトに収まらない過剰さはない感じだ。
だから、作者本人の意図はともかく、観ているとこれはこういう意味で、と色々な解釈を「言葉で」説明することができる気がしてくる。

物理的な仕上げについても、こめかみが痛くなるようなキリキリした審美的感覚を駆使というより、きれいだけどディテールがなくて、「考えました→作りました」って感じ。
よく、とても美しい作品を見ると自分の視覚システムが一時的にそっちに寄ってしまい、外に出たときに街がものすごく汚く見えていやになるが、今回はコンビニやらガードレールやら地下鉄構内のそっけない階段や天井を見ても、むしろ氏の作品を思い出しているのだ。

と、書いてくるとまるでネガティブなコメントみたいだけれど、基本的に、シンプル、ミニマルなものに対して偏愛があるせいか、嫌いどころかとても楽しく、面白かったんですね。なぜか観ているうちに制作上のアイデアも次々生まれ、これらの作品と自分がとてもよい関係で「交流」できた展示だった。

河口龍夫展 言葉・時間・生命 (東京国立近代美術館 12月13日まで)
http://www.momat.go.jp/Honkan/kawaguchi_tatsuo/index.html

# by zelan | 2009-12-13 09:34