原初のキス

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2009年 11月 25日

2009年11月25日 よく見ない、考えない

「頭のすみにおいておく」、というのは明らかに一種の技術である。それでうまくいくことがたくさんある。
例えば作品のテーマ。「テーマとは、そこに向かっていくものではなく、そこから出発し、追い風としていくものだ」、という美術家北川健次氏の言葉を前に引用したが、テーマって、向き合ってしまうと、表現の幅をどんどん狭くする方向にしかいかない。「クリスマス」について正面きって考えると、緑とか赤とか、サンタクロースしか見えてこないように。クリスマスの絵を創ろうと思ったら、直接は関係のない素材をいじりながら、クリスマスのことを少しだけ忘れないでいる程度がいい。そうすると、ステレオタイプでないクリスマスが、現れてくるのを邪魔しないでいられる。

「見渡せば花ももみじもなかりけり」と聞けば、そこにない花やもみじのイメージが眼前に展開するように、見ようとすれば隠れ、見まいあるいは見えないと思うと現れるのがイメージの性質だ。向かうと離れ、そっと横にどけておくとなまなましくほんとうの姿を現わす。このことをいやがるのではなくて、喜んで一緒にいる、その感覚をつかみたい。
皆絵って特に創るときは、穴のあくほど見て、深く考えるのが重要だと思っている。そういう場面も確かにあるけれど、それだけがすべてではない。軽いかまえで、ちょっと横目で見るような感じ、それがよい結果をもたらすことも多い、というか、少なくとも自分の場合、調子のいいときはほとんどそればかり。

# by zelan | 2009-11-25 01:01
2009年 11月 24日

2009年11月24日 東京コンテンポラリーアートフェア2009

昨日は新橋の東京美術倶楽部で開催されていた東京コンテンポラリーアートフェア2009 (TCAF) 最終日へ。
作品は繊細、神経症的で、技量高く、描かれているのは人間、その感情、身体、針の穴から覗いて拡大したような感覚などがかなり。比較的若い作家層が多いからか。絵画としての質の良しあしとは別に、弱々しくて、こちらからエネルギーの持ち出しがある感じのものが、少なからず、ある。

東邦アートのブースで日本画家千々岩 修氏の抽象作品を見た。とてもいい。
岩絵の具(だと思う)は懐が深くて、ぎらぎら反射せず、見ていると自分と溶け合って、意識とからだを清明にする。人事より大きい、自然と原理的なものの世界で、エネルギー回復。

# by zelan | 2009-11-24 09:13
2009年 11月 23日

2009年11月23日 アンチ・ハリウッドの悪夢~映画「脳内ニューヨーク」

渋谷 シネマライズでチャーリー・カウフマン監督「脳内ニューヨーク」を見る。
監督は「マルコヴィチの穴」などの脚本家。

空に浮かぶ人のよさそうなおじさんの頭の上にニューヨークの街が王冠のようにのっかっているポスターを見て、てっきりコメディだと思っていた私は、冒頭からさえない風貌の劇作家の主人公(アカデミー賞主演男優賞受賞の名優フィリップ・シーモア・ホフマン)が色んな病気を患ったり、奥さんが娘を連れて出奔したりのクラいエピソードに辟易しつつ、これがいつ逆転して「脳内」だろうがなんだろうがおもしろおかしくなるのか、と期待しながら見ていた。
ところがおもしろくなるどころか話はそれからもどんどん悲惨になり、生老病死の奔流で七転八倒の主人公は、受賞で得た大金を元手に巨大セットと大量の役者を使って自分自身の人生を再構成しようとするが・・・。

脚本も演技も実に素晴らしい。一方、何の救いもカタルシスもない。
一緒に見た知人が、「ハリウッド映画の真逆」と言っていた。

仏教では人生が苦であることは真理とされている。しかしその原因である欲や無知の構造を正しく理解して苦の超越を目指すことをも説いている。
この映画は前半の真理を見事に描ききっているが、後半についてはゼロ。
日本人だから、ちょっとだけ仏教を知っていて、よかったなー。
いずれにせよ、こういう映画を創れるのは精神的にすごいマッチョな方々であることは間違いない。
繊細と言えば聞こえはいいが、くまのプーさんのピグレットに毛が生えた程度に精神力にへなちょこの気味のある自分としては、「見るだけでもたいへん映画」今年のナンバー1を授賞する。

「脳内ニューヨーク」
http://no-ny.asmik-ace.co.jp/index.html

# by zelan | 2009-11-23 00:04
2009年 11月 22日

2009年11月22日 鑑賞

それは動いているか、震えているか、無音か、触ると手が切れそうに
鋭いか、制作者のものではない独自の生命力を持っているか。

美術の作品を観るときは、これらが気になる。
自分が創ったか、人の制作物であるかは、関係がない。

# by zelan | 2009-11-22 02:00
2009年 11月 21日

2009年11月21日 レベッカ・ホルン展 東京都現代美術館

知人のひとりがこの展示を「つまらない」と言っていたのだが、私自身はとてもおもしろかった。それでも色々と思うところあり、つまらないと感じる向きがあるのもわからないではない。

まず思っていたよりジミだな、というのも一つ。動く作品が多いが、今の日本の時間感覚からいうと、なっかなか動かない。例えば、天井から吊られた有名なピアノの作品は、鍵盤が出るところは見たけれど、しまわれるところはしばらく待っていたもののしびれを切らし部屋を出てしまった。
実は私は彼女のインタビュービデオを何十回も見る程、彼女の作品には興味を持っている。ビデオではクライマックスの所が中心になっているので、ものすごくインパクトが強く感じるが、実際その場にいるとかなり淡々として自然な感じ。映像作品は当然どんどん動くのでまた違う印象があるけど、インスタレーション・立体作品については作品に流れている本質的な時間を今の日本に生きる自分とチューニングするのが生理的に少々難しい感じでは、ある。

もう一つ、少なくとも今回展示されている作品は、外形的にもコンセプチュアルにも、あまり多様なことはやっていないということだ。さまざまな試みのあるゲルハルト・リヒターなんかとは印象がだいぶ違う。機械に仮託された生命というか、機械という強固な物質性(と見えるもの)と生命のはかなさが意識の中でシンクロするような奇妙な象徴性。
ただ、時間感覚も、多様なことをやらないでシンプルな立ち位置に居続けることも、彼女自身の中に深く根づいたものからきているのを直感的に感じる訳で、その真摯さがすごい強度をかもしだしている。さらにその結果表出されているイメージが確実に世界の真理につながっていることも。だから、結論としてはやはり大変におもしろかったのである。

さて、女性の創るものは多少なりフェミニズムというか、ジェンダー・アートの趣を帯びるのはどうしてだろう。キキ・スミスやルイーズ・ブルジョワなどもしかり。並べて書くのもおこがましいが自分の創るものもしかり。
思うに女性とはつくづく、自分という現実からは離陸しづらいが、その離陸しづらさをもって逆に世の真実をあらわにする、ということもあるのだなあ。女性は古今東西延々と縛られていて、それは必ずしも社会や政治システムによってではなく、一種の自縄自縛なのではないか、論理的にはうまく説明できないけれど、彼女の作品を見ていて、まざまざと、そう感じた。

レベッカ・ホルン展 東京都現代美術館
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/107/

# by zelan | 2009-11-21 00:04
2009年 11月 20日

2009年11月20日 答えより態度

女性であれば、どんな人がタイプですか、という質問を男性から
受けることが度々あると思うが(というか、男性でこの質問を
しない人に会う方がまれだが)、これには結構困る。
まず、大抵の女性は男性を一目見て生理的に個別具体的に
好む好まざるを決めているから、タイプとして普遍化して認識
しておくする必要性がそもそもない。
それから、仮にタイプ的なものを経験から想定するにしても、
本当のことが言えない場合が多々ある。
だってたとえばものすごくかっぷくのいい男性を前にして、痩せた
人が好きです、と言えるかどうか、想像すればわかるはず。
せいぜい、自分の嗜好の中から、相手にとって不快でないだろう
適当な要素を選択してお茶をにごすだけ。
要は、この質問の問題は正確な答えが得られないということ
である。

それより男性におすすめしたいのは、女性を観察するという
こと。この質問にしてももちろんしてはいけない訳でなく、
気にいった人からされればまさに女性にとって自分の気持ちの
アピールの好機であるので、心のこもった、ディテールのある
表情や言葉で、頑張って対応するであろう。つまり重要なのは、
答えの中身そのものではなく、相手の態度である。
ところが私がこのような意見を述べると、見てもよくわかんない
んだよねー、と言われる。そうならもうなんとも言いようがない。
そういう人は私のタイプではないですね。そんなこと言われても
痛くもかゆくもない人が大半かもしれないが。

ところで私は生まれてから一度も、この質問を男性にしたことが
ない。今度してみようかしら。しかし、男性は比較的気軽にこの
質問ができそうだが、女性がすると意味深げになりすぎるので
気をつけないとね。

# by zelan | 2009-11-20 14:34
2009年 11月 19日

2009年11月19日 第12回笹尾光彦展-花のある風景-

昨日Bunkamura Galleryにて笹尾光彦展を見る。
知人に笹尾氏の作品のコレクターがいて、かなり前にご夫妻とも
にお会いしたことがあるのだが、覚えてくださっていてありがたい。

道具を使わずに壁に穴を開けるにはどうするか。
絵を飾る。つまり絵画は窓だということだが、彼の絵からは、
明るい日差しがふり注ぐ。ものをとらえるのは、その人の人格を
通してとらえるのだ。彼は真昼のひと。
寡聞にして夜の絵があるかどうかわからないのだが、逆に夜の絵
はどんなだろうと想像してみるのもおもしろい。

第12回笹尾光彦展 -花のある風景- (渋谷 Bunkamura Gallery) 
24日まで
http://www.bunkamura.co.jp/gallery/091113sasao/index.html

# by zelan | 2009-11-19 00:20
2009年 11月 18日

2009年11月18日 誘ったりだまされたり

美は、とても懐が深くて、どこにでも気軽に現れてくれる。
水をこぼしたら飛び散った水滴もきれいだし、ごみ箱の中の
紙の重なりがきれいだったりもする。
でも同時に偏狭なところもあって、創ろうとすると隠れ、あえて
見出そうとすると、フェイクを出してきたりする(思い入れ
たっぷりだと美しく見えるが、実際はそれほどでもないとか)。

美は迎えにいくものではなくて、環境を整えて、訪れを待つものだ。
乾いたところ、あるいは湿ったところが好きな生物がいるように、
美が好む環境はあって(それは我々の意識や肉体の状況だったり
する)、美術というのはつまり、美そのものを追及するというより、
その好む環境や条件を少しずつ発見するようなことなのかしら。

そういえば絵を描く知人と話をしていて、筆で描いてからだって、
コラージュだったら糊で貼ってからだって、筆跡あるいは貼った
素材は、「ミクロンの単位だが、気合いで動く」ということが合意
された。

結構祈るような気持ちで創っていることってあるものだが、
意識のバイブレーションが、物質に微妙な物理的変化を
及ぼすのかもしれぬ。
しかしこれにしても、自分の眼の中にだけある美に、実は
だまされていたりして。

# by zelan | 2009-11-18 00:15
2009年 11月 17日

2009年11月17日 「集中」の理想的形態~ダビデ

ミケランジェロのダビデ像の図版を眺めていたら、この人めちゃくちゃ集中
してる!ということに気づいたのである。

「集中」という言葉は、筋肉を固めて視野を狭くし力みかえってことにあたる、
というニュアンスを感じるのであまり好きではないが、ほんとうの集中は
もっと格好いいんじゃないかしら。
ほんとうの集中は目的がはっきりしていて、状況がよく見えていて、
からだはいつでもどこでも動けるように注意深くかつ落ち着いている。
そんな風にダビデは今まさに巨人ゴリアテを倒さんと石をかまえているのだ。
バッターボックスのイチローみたいに。

ところが我々(少なくとも自分は)、なんにでも比較的簡単に緊張し、最悪な
ことに緊張していることに気づくと更にまた余計に緊張したり。
つまり目的の行為を適切に果たすことのできるまっとうな意識を失うという、
「倒錯」に陥るわけですね。

この「倒錯」が、自分にとっては石を投げつけるべき相手である。

# by zelan | 2009-11-17 00:29
2009年 11月 16日

2009年11月16日 アウフヘーベン

二つの相反するエネルギーの統合あるいは止揚が、芸術ということで
やっていることだと思う。収束することと広げること、方向づけることと
壊すこと、制御することと自然に従うこと、恐れと気楽さ。
でもそれって芸術だけのことだろうか。

ただ、いずれにせよ何かの行為において何と何が拮抗したり相反したり
している要素なのかについて明確に気づくことが、まず最初のハードル
だったりする。恐れや偏見なくものをしっかり見ないと、それはわからない。

# by zelan | 2009-11-16 00:07