原初のキス

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2019年 01月 31日

ほぼ80%の確率

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夕食時となりの席で話している女性二人組が、職場の同僚ないし上司への愚痴を一方が主に語りもう一方が同調しつつ増長させるという会話の流れで盛り上がってきたかと思うと突然、いきなり私の定義によるオカルトやニューエイジ方面(占いだの方たがえだの前世だの・・)になる、という確率があまりにもあまりにも高い。世代問わず自分の感覚ではほぼ80%くらいなのである。(私はいろいろなレストランに出没しているというのに)。

自分が社会学者だったらこれを研究対象にしたい(まずはほんとに80%なのかを確認しよう)。でも日本女性が30年間世界第一位という長命を享受しているということは、これが一種の「健康法」である可能性がある。調べるのは社会学者じゃなくて医学研究者の方がよいのか・・。

自分はアートを作ったり見たりするのも立派な健康法たりうると思っているが、ただ作ったり見たりするだけでは効果が十分でなく、いくらか見る物の質や見る方の鑑識眼というものが関係しそうだし、愚痴とかオカルトほどスカっとはいかないだろう。

でもなんだか、こっちの方をおすすめしたいような気がするのである。


by zelan | 2019-01-31 11:55 | 美術について
2019年 01月 30日

美しくなければやりたくない

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最近、全部とは言わないが色んな国々の為政者の振る舞いや施策を見ているに、美しくなければやりたくない、というようなシンプルな倫理的美意識に基づく行為、あるいは行為しないことが選択されるなら、世界はこのようではないであろうと思う。各国の政治に関わることになるような人々は行動力も知力も基本的には優れた人々のはず(欲の皮だけつっぱってるとはさすがに思いたくない)。そのような方々にしばしば欠けているものがこの倫理的美意識であるとすれば、大変残念だ。

倫理的な美に従うということは単に、利己的な理由を第一義として他の生命を侵害せず、建設的な協調を実現すべく人として希有にも与えられた知性を使うということ。

そんなめちゃくちゃ難しいこととも思えないが、これを全世界的に実践するのが難しいままに人類は既に長い長い道を歩んできた。

さて、できることは何か、取り急ぎ自分だけは、できうる限りの倫理的美的感覚を持ち続けるということ。



by zelan | 2019-01-30 22:43 | 美について
2019年 01月 29日

基本というもの

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基本というのは先人の知識経験の集大成なので決して初歩的ということではない。
むしろもしも基本と言われるものを誰かから習ったりあるいは調べて情報を得るのでなければ、基本及びその重要性に気づくのは結構経験を積んでからということになる。私は美術を高名な美術家の方に手ほどきを受けたが、彼らが伝えるのは言ってみれば表現する際に考慮検討すべきエッセンスの方で、いわゆる基本ではなくましてや初歩的な要素などではなかったように思う。そしてこのブログにも記事を書いたことがあるが、例えば私の先生に構図の理解を深めたいと言ったら構図でなく人間の視覚の原理が重要だと彼は言ったのだ。

ともあれ基本を最初から全部習ってしまったり人から聞いたりしらみつぶしに調べてしまうのは、なんだか少しもったいないし、ちょっと危ないと思う(経験より言語の理解があまり先になると経験に言語の色付けがなされて感覚の純粋性が阻害されたり等々)。ただし、すべて自分で発見していくというのは経験上あまりにも効率が悪すぎる、ということで勉強半分手を動かすこと半分という、比較的穏当な結論に落ち着くのであった。


by zelan | 2019-01-29 14:56 | 美術について
2019年 01月 28日

「再現」は絶対に、できない

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何かやっていて(例えば絵を描くなど)ふと劇的にうまくいったとする。そうするとそのプロセスと結果を「再現」して「定着」させようと人は試みるものだ。ちゃらちゃらした人は物事がたまさかうまくいってもせいぜいラッキー!と思う位でそんなことを考えないかもしれないが、大体において美術や音楽やスポーツなどの技芸に関わる人々はことさらまじめな人が多いので、またできたらいいな・・と思うのである。

でもこれは自分の度重なる経験から自信を持って言えるのだが、何事も、絶対に「再現」することはできない。どうして同じプロセスで注意してやってるのに同じ(期待した)結果が出ないのかとこれまで100万回位泣いたような気がするが、考えてみたらそんなのは当たり前。自分の動作はもちろん、画材の状態やらその他回りの全ての条件が完全に一致することはない訳で、そもそも「再現」というコンセプトそのものが、現実世界では成り立たないのである。

でも「練習」を積んでいくとうまくいくぢゃん、というのはある。これは再現を目指すためにするものでなくプロセスにおける条件のトレランスを実践を通して認識し、その範疇に自分や道具や環境のブレを収め目指す結果を得ることへの習熟のためにやっているのである。

でもわかってるつもりでしばしば、この「再現」しようとするコンセプトにすぐにはまってしまうのだ。人間は安心安全を求めるから。うまくいったことが「再現」できると思うとふんわかした気分になれるからである。実際、何事も再現できない、と思うと常にアラートでいなければならない、これは凡人にとってはそこそこホネなのだ。


by zelan | 2019-01-28 19:56 | 制作心理
2019年 01月 28日

墨の懐

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黒というのは比較的注意して使った方がいいと、絵を描く少なからぬ人々は思っているだろう。黒は強い色で他を圧倒しやすいし、例えば影とか暗いとか言っても実際は別のものの色が反射していたりするのでいわゆる真っ黒というのは稀なのである。絵具の黒は何種類かはもちろんあるが、使う時そのまま使うのではなく例えばアイボリーブラックに
ウルトラマリンを混ぜるなどして色味を加える方が使いやすい。

ところで最近よく作画に墨を使うのだが墨の色というものは何と言うか最初からかなり混色されているようなニュアンスがありアクリル絵具の間に置いてもなかなか良いのである。チューブ絵具の黒のようなそっけない人工物感がなく何とも懐の深ーい感じ。アクリル絵具が耐水性なのに対し、墨はそのままだと水に溶けるというのや、マスキングテープではげやすいとか、自分の技法の関連では若干の扱いづらさはあるものの。

これ何かに似ているな~と思っていたら、そう漢方薬なのであった。キレよく扱いやすい西洋の絵具は西洋薬。

因みに自分は漢方を愛飲していて主には補中益気湯というのを飲んでいる、微妙に体調が悪くなるとこれを少し飲むと大抵改善。不思議なのは日本で承認されているものだけでも漢方は300種類近くあるのに、なぜか自分においてはほぼすべての不調に対しこれで用が足りてしまうこと。これもまた懐が深い。






by zelan | 2019-01-28 15:22 | 絵画
2019年 01月 27日

傷の使いみち

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制作中の絵に構想に反するちょっとした傷を見つけた時、それがうまく隠せない、あるいは隠すのに失敗してしまったら逆に目立たせるしかない。
目立たせ方には二種あり、大きな構想から逸れずにむしろ構想を強化する方向でそうするか、もう構想にこだわるのをやめて傷自体を友として別の方面に旅に出るかだ。後者の成功率は経験上非常に低く(大体15%位かな・・)、旅は大抵「遭難」で終わる。
でもこれは個々の作品を完成に持って行くという意味で「効率が悪い」だけで、結局そういうことにどんどん慣れて経験値を積んでいくと、自分の持っている構想のレイヤーを行き来し、どのレイヤーでも成功することがうまくなっていくかもしれない。だって自分の作品の構想なんて、どうせ一人の人間が考えているのだもの。違う風に見えたって抽象的などこかの層では必ず一つの構想なのだ。

いずれにせよ絵の瑕疵について考えていると、人間の欠点のようであると思う。そう、欠点をカバーできないのだとすれば、それを活かすしか道はない。



by zelan | 2019-01-27 12:04 | 制作心理
2019年 01月 26日

コラージュと朝ごはん

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このブログでも最近紹介している岡上淑子氏のコラージュの展示が目黒の庭園美術館でいよいよ今日から始まる。


コラージュは結構根源的に人間の営為に近い。人はいつもいろんなものを「組み合わせ」ているからだ。
朝ごはんを作る時に卵焼きと目玉焼きとスクランブルエッグを出して旦那や子供を驚かさずに卵焼きとお味噌汁と干物とご飯を出すのも立派な組み合わせ感覚及び行為である。

もっとも表現としてのコラージュは和定食ではない。大昔カリフォルニアロールというものを知りちょっとびっくりしたが食べ物でいえばあっちの方がコラージュに近い。それまで米とアボカドを一緒に考えることなんて殆どなかっただろうから。

コラージュは即ち基本的な制作原理として、素材同士であれ素材の持っている一般概念に対してであれ、「距離」を作るというのが重要である。そういう意味では卵焼きと目玉焼きとスクランブルエッグ朝食は意外にコラージュ。通常の、卵料理を含む朝ごはん概念からの「距離」があるからである。


by zelan | 2019-01-26 12:16 | コラージュ
2019年 01月 25日

「こわくない話」再録

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人間の感覚の曖昧さについて考えていた。その関連で、かなり以前に書いた話を再録しようと思う(一部編集した)。

2010年6月3日 
都内のあるバーで飲んでいたら、知人が「やばい人がいる」というので振り返ると、隅の方でカウンターにひとり座っている髪の長い女の人がいた。ぴくりとも動かないという物理的なことはともかく、単に陰にこもっているというより、そういう感情的なものをはるかに超越した生命感のなさがあったので、しばらく気になっていた。

30分近くたって彼が、「あ、足がない!」と言った。確かに本来彼女の足があるべきところには、椅子の脚しかなかった。別にオカルト方面の話ではなく要は人形が上半身だけ椅子の上においてあったのだ。

ということで「こわくない話」なのだが、ひとめで人形と見抜けないくせに生命感がない、ということだけは鋭く見抜くようなあいまい至極・・あるいは奇妙な性質を持っている感性で、我々は様々なことを考えたり感じたりして生きている。このこと自体は、まあすごくこわいという程ではないにしても覚えておいた方がいいのかも、とその時思ったのである。


by zelan | 2019-01-25 21:10
2019年 01月 24日

「作り方がわからない」は「情報」である ~ omnis「EVOLVING」展@渋谷ヒカリエ

作品には作品として、更には良い作品として成立する情報密度とでもいうものがあるように思う。ある大きさや形態の作品において受け取る情報の総量が「みっちみち」でも「すっかすか」でもあまり面白くないのであって、これは作品の構想にも関連する上に感覚的なものなので言葉としてうまく説明できないが、とにかく情報密度ってものはある。それが不適切だと、なんだか関心が継続できない。我々の誰もが、多かれ少なかれそんな風に芸術作品を見て体験しているのではないか。

絵を見る時の自分の主たる関心事はこの情報密度と、それから「どういうプロセスで作られているのか」という2点である。後者については、わかったり想像ができれば参考になるし、全然わからなければそれはそれで刺激的なのであって、プロセスを考えることはいずれにせよ鑑賞の大きな喜びなのだ。

そういえば「作り方がわからない」というナゾも立派に情報密度の一部を成す。
情報は脳への刺激であって、ナゾという刺激は鑑賞者を絵の前に滞留させる。そして作品が観る者にとって良いと認識されているか否かは実はこの滞留時間で測れる(かもしれない)。

前置きが長くなったが渋谷ヒカリエCUBE 1, 2, 3で開催されているomnis「EVOLVING」展。
入り口の正面に展示されており、メインビジュアルにもなっている金子透氏の作品の制作プロセスは自分にはわからない(仮説がゼロではないが恐らくハデに外すのでここでは述べない。いわゆる絵画技法のみというより他の技術技法領域も参照されているような気がする。あるいは絵画技法を「還元・強化」しているかもしれない)。

面白いと思ったのは、これを見ているとなんとなく時間感覚みたいなものが刺激及びいい意味で混乱させられるのだが、それはこの作品のイメージから来ると共に制作プロセスやその所用時間がよくわからないということから来ているように感じる。もしかしたらものすごく時間がかかっているかもしれないし、大画面だが比較的短期間かもしれない。・・・前者かな、とすればこの霧か砂か雲か、飛ぶ鳥のようなものが漂わせる瞬間的な無常感を、堅牢/構築的で手の込んだ制作プロセスが支えており、見かけとプロセスの距離が我々が感じる情報密度の一部を成しているのかもしれない(と、妄想は膨らむ)。

omnisは現代美術家金子透氏率いる芸術家集団。展示の他の作も上品な精神性を感じるものが多い、清冽なる好展示。

イメージの解体 リアリティへの挑戦

1月30日まで。 





by zelan | 2019-01-24 22:06 | 展示レビュー
2019年 01月 23日

サイレント給食と自由

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どこかの学校で、インフルエンザが流行っているので給食中は他の生徒と話をさせないという施策がとられたと聞き少々びっくりした。
話してもしかるべき時間に話さないという、お子様とはいえ立派にものごころがついていらっしゃる方々の個人の自由の領域に踏み込んでいるように感じたからである。

ただ、もしかしたらこの生徒さんたちは、恐らく普段はそうしていないだろう味に集中することができ、感覚世界における何等か新たな発見をしたかもしれない。殆どの場合我々は色々と他のことに気をとられながら食事をするので、十分にものを味わうということをしていないからである。
それならば給食中人と話すことを禁じられたとしても多少の喜びが見出せるというもの。


by zelan | 2019-01-23 21:39