原初のキス

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2018年 08月 22日

ずらす

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自分の感覚にぴったり合わせなければならないとつい習慣的に思ってしまうが、むしろ少しずらすことが重要。
体に合い過ぎた服の中で身動きが取れなくなるのを避けるように。

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by zelan | 2018-08-22 14:53
2018年 08月 19日

エリックとの再会

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「過去と他人は変えられない」という言葉があって、なんだかこれを見聞きするたびに、いや~な気持ちになっていたのである。

なぜならば、いかなる過去も、現在のまたは現在に至るまでの自分の体験や状況によってころころとその解釈(自分にとっての意味)は変わる、そしてまたこれまでの経験を振り返ってみると、自分を要所要所で決定的に変えてきたのは、人との関係や彼らの自分に対する言動や想いだったりする。ということは私にしても他人をド派手に変えてきたのに違いない。
つまりこの言葉は、経験的・論理的にまったくもって納得がいかないのである。自分に言わせれば、「過去も他人も変えられる」ことは自明なのだ。

私程度の観察力もない人がこれを言い始めたのだろうか、と思って調べたら、これはカナダの心理学者、エリック・バーンの言葉だった。『性と愛の交流分析』『人生ゲーム入門 人間関係の心理学』等の著書があり、自分が昔ばっちしこれらの本を熟読(内容は殆ど覚えてないけど)していたことに驚いた。日本の誰かが雰囲気で言い出したテキトーな名言かと思ってたよ・・・。

ちなみにこれには以下の続きがある。
「しかし、いまここから始まる未来と自分は変えられる。」
うーむー、後半は前半より少しマシだが、過去や他人から完全に切り離された今も未来も自分もないからなー。やっぱりビミョー。

さて、前後の文脈など無視して論じているという乱暴ななりゆきの中、それでも原文くらいサーチしておこうと思い確認した処、
"You cannot change others or the past. You can change yourself and the future."
というのがどうやら原文らしい。(あれ、過去と他人の順番がひっくり返ってるが、取り急ぎよしとする)

なぜか反感が減る! 最初英語と日本語の違いからかと思ったが、この二つの文を通しで読めば、全体が「今」の感じになるからかもしれない。今この瞬間の自分にとっての、過去の経緯も踏まえた上での他人や過去に対する認識を即座に変えるのはできないが、今からの自分や、よって自分のもたらす未来を変えることのできる可能性は常にあるよ、とエリック君が私に語りかけてくれているように感ずる。

あ~言葉ってめんどくさい。週刊誌報道やワイドショーよろしく、耳や頭に入ってくるのは断片が多い。絵なら一発で全体見通せるのにな。













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by zelan | 2018-08-19 23:12
2018年 08月 11日

絵画史上最強美女

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以前書いたブログの再掲。描かれてから既に540年位経過している。21世紀に生きる自分も、未だに彼女のことは好き。美の寿命は実に長い。




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by zelan | 2018-08-11 00:19
2018年 08月 09日

版画

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私は、いわゆるところの絵画も版画である、という気がしてならない。
自分が創るということは、その企図なり感覚なり技量なり動作なりが基になる。

そういう自分とはつまり、機能的にはまさに「版」なのである。

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by zelan | 2018-08-09 22:43
2018年 08月 04日

英語でケンカ(その2)

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またやってしまった英語のケンカ。外国人の知人と電車に乗っていて、話している内にさる状況におけるお互いの行動に関して見解の相違が生じ、「あれについては俺様は悪くない、お前が悪い」と先方が言うので、
「い~や、悪いのは俺様(私のこと・・)でなくお前!なぜなら・・」
と、押し問答になったのである。周りの空気が凍りつくのを感じたが、話が平行線をたどる内に電車は数駅を通過し、「あ、ここで降りるんぢゃない?」と私。「そうだ!じゃ、またね。」と互いにバイバ~イ、と手を振って別れた。

日本人同士だと、表現にやたら気を使いオブラートを五重にかけつつ申し述べた比較的軽微な相手に関する「批判的意見」ですら、かなり重篤な感情的わだかまりを残すことがあるので要注意だと思うんだけど・・・。(だから自分はそういうリスクを基本的には取らないという、その方面においては確信犯的にへなちょこな人間なのである。)

日本語はその性質として、婉曲表現が得意だ。一方自分の知る限りの英語は、むしろ誇張する表現が得意。
だから日本語においては、いくらでも婉曲に言えてしまうんであって、故に微妙にでも不快なことを言われた際に、これはきっと婉曲されてるに違いない、一体全体、婉曲されてない相手の思いの実体は、いかほどのものであらふか・・・と、どんどん妄想が膨らんでしまう。

だから自分のように穏健な人間は、よほどのことでないと、日本語でケンカなんかできないのである。(とはいえ穴にはまって、さすがに真剣に人に怒った、30年以上前の思い出。)



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by zelan | 2018-08-04 22:29