原初のキス

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2018年 01月 31日

完スピで寒風に顔をさらすの巻


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用事のために家を出て寒風吹きすさぶ道を歩いていてふと、ただ寒いせいだけではない何となし心許ない感じがした。その理由はすぐにわかった。出がけにばたばたして、口紅の一つもつけずに飛び出て、完全なるスッピンの顔を世間にさらしていたのである。

自分は普段からどちらかと言えば化粧は薄く、なぜそのとき思い立ったかは忘れたが28歳の頃にいわゆるファンデーションというその名の通り基盤的なる化粧品からも足を洗った。よってスッピンとは言っても多少のポイントメークの有無に過ぎないが、それにしても何もなしというのは世間に対しちょっと配慮が足りない、という感じもした。

一瞬家に戻ろうかなと思った。しかし時間もないことだし忘れ物にかけては自分の知り合いにとんでもない猛者たちがいたのを都合よく思い出して、まいっか、とそのまま歩を進めることにしたのである。一人は高校生の頃、鞄(即ち中に入っている教科書や財布等の諸々を含む)を持たずに手ぶらで登校しその日は人に借りるなりしてなんとかしのいだ男子、もう一人は同じく高校に通っていた冬のある日、スカートを履くのを忘れて学校に行き、コートを脱ぐ直前で気づいて家に戻った、という女子である。財布もSUICAも持ってるしトップスもボトムスもきちんと身に付けている私なんてたいしたことない。

そうして歩く内、私はあることに気づいた。自分の顔つきが常とは違いしっかりしている(鏡で確認した訳ではないが内的感覚としてそれはわかる)。どうやら、口紅などのいささかの援軍もなき今、自分の本質が問われている、と内心はりきっているらしいのだ。

と、いう訳で、化粧を忘れて外に出ても何を失うでもなかった。これがやみつきになったらそれはそれで自分及び他人が困るかもしれないが。


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by zelan | 2018-01-31 08:23
2018年 01月 30日

方向音痴のリアル

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今まさにこの瞬間がそうなのだが、自分は道に迷っている。地図を持っているのに目指すところがどうしても見つからず、疲れてきたのでカフェに入ってこれを書き始めた。
地図が読めないため迷子になり、自分がこれまでの人生において投じた時間とお金は膨大だ。お金の方は今みたいに歩き疲れてカフェに入ったり、結局タクシーに乗ったり・・・(ツーメーター以上目的地からずれていることもあって驚く。運動にはなっているのが不幸中の幸い)。
目的地に電話して教えてもらうこともないではないが、なるべくなら自力でなんとかしたい私。でも結局自力でさばけず、その昔お犬に連れて帰ってもらったこともある。(文末にリンク)

もっとも毎回は迷わない。10回に3、4回は真っすぐ着ける。その場合は、目的地には行ったことがないとしても四方を知ってる場所で囲まれていたり、そもそもX駅Y口出て正面などのように迷いようもない位単純な場所であることが多い。
別に四方から囲まれてなくても近くに1カ所知っているところがあれば何とかなるのでは、と人は思うかもしれないが、その知ってるところの例えば道一つ向こう側に渡った場所だとして、その渡る道の選択を間違えてしまうのである。あるいは前の用事などから知ってるとこにいつもと違う駅から向かわねばならない場合、単に一つ行けるか行けないかわかんない場所が増えるだけ・・・。

自分が迷う理由としては、「(地図にのってる)道が建物や人に隠れている」というのが結構多い(この時点で既に、私の話についてこれる人は選ばれた民であろう)。他にも地図の右と左が自分の右と左とどう対応しているのか、即ち順なのか逆なのか、あるいは上なのか下なのかがわからない、地図の縮尺と自分が見ている現実世界の縮尺のイメージが違っているために、遠い・近いなどの感覚がずれている、地図では曲がっている道が自分には真っ直ぐにしか見えなかったりその逆もまたある、等々がある。
道の太い、細いなんかも、これ細いよね、という道が太い道だったりして、細い道を越えたら左、とか考えてるうちに(もしかしたらこの戦略?自体間違っているのか)違う場所につれていかれてしまう。方向音痴でない人にとっては、もはやポール・オースターかなんかのSF仕立ての小説位不条理なことを言っているようにしか聞こえないかもしれないがすべてほんとの話である。
それにしてもこんなにたくさん理由があったら知らないところに出かけるたびにこれらのどれかに容易にはまってしまうのは当然のような気がしてきた。よく迷う理由は確率論的にも証明されたよ。とほほ・・。

実際、駅を出て、自分の持っている地図を見て、どっちに向かえばいいかわからず駅前に立ててある看板状の地図も穴のあくほど見て、手元の地図と駅前の地図を見比べると確かによく似ているのだけれど(当たり前だし、この見比べる行為の意味も今ひとつわからない・・・)、いざ現実世界を見てみると現実の向き?が地図と違うせいかどうにもどっちに歩を進めてよいのかわからず、まるで燃料切れで目的地とは異なる星に不時着した宇宙飛行士のごとく凍りついたまま途方にくれてることも多い。
外出のため地図をプリントアウトした時点で、その見かけから「この地図ヤバい・・」と、実は地図でなく自分がヤバいのだが、予想がつくこともある。そしてこの予想は悲しいことに決して外れないのである。

また、これは自分でも不思議なのだが、この方面における自らの能力のなさを熟知していながらなぜか、地図のチラ見でわかったというような気になってしまい、歩きだして全然わかってなかったということが証明されることも少なからずあるのだ。ちなみにスマホの地図はできる限り避けている。大きくしたり小さくしたり動かしているうちにますますわからなくなるし、指で不用意に押したところがいつの間にか新たな目的地に設定されてて、隣の町まで運ばれていったこともあるから。

思うに、頭の抽象度が足りないのだ。
地図という抽象世界についていけない。自分はどちらかと言えば、「ぴったり同じものしか」、「同じ」とは認めたくないのである。地図に書いてあるAという場所が現実のソレでもありうることを、どこかしら十分には信じていない気がする。

でもそういう自分が絶対に迷わない地図がある。それは文字のみで指示される場合である。X駅のY口を出たら右手のZ銀行に向かって道を渡り・・・、とかいうアレ。でももはやそれは「地図」とは言えない。だって図ぢゃないんだもの。
この件がさっきの抽象度の話とどうつながっているのかはよくわからないが、いずれにせよ文字と現実位ハデに違っていればもう自分はそれが同じであってもかまわないという、自慢ではないがユニークな立場を取っているのである。(絵)地図と現実のように、一見似てるようで違うのが非常に苦手だ。そうするとつい似てるところを探さねばという構えになり、でも事実上かなり違うので、混乱してしまうのである。
もしかしたら自分が絵を描くのは、その空間(ていうか平面だけど)は、自分の思うがままにはもちろんならないとしても少なくとも一望し掌握はできる、ということからくる安心感もあるのかもしれない。

お茶がなくなったのでこれからカフェを出る。いったい目的地に無事たどり着けるのだろうか、博打を打つような気分だ。


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by zelan | 2018-01-30 11:49
2018年 01月 30日

「ヘン」について

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知人とギャラリーに展示を見に行った時、その展示がたまたまいたくお気に召さなかったその人が、「真っ白けの場所に、ヘンなもの置きさえすれば現代アート」と苛立たし気に言うので大いにウケた(真っ白けとはいわゆるホワイトキューブと呼ばれるが、壁も天井も白いコンテンポラリーの典型的展示空間)。
もしかしたら気に入る気に入らないとは別に、一部そういう側面は否定できない。ヘン=常とはズレている=よって感覚に刺激がある、というのは、芸術の十分条件ではないものの必要条件だからだ。そのヘンさ加減があからさまであざとかろうと、非常に巧妙に上品に表面から沈潜せしめられていようとも。

ヘンに関し、それが如何に強力なものであるか、モナリザについて妄想してみよう。古風な服装をH&Mで買った普通の服にして髪型も青山のヘアサロンでゆるふわセミロング前髪ありにしても、あの表情で道を歩いてるところに遭遇したら私ならすぐさま逃げます!

(図像:是蘭「虚数の恋」2009)

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by zelan | 2018-01-30 00:19
2018年 01月 28日

セサミストリートの曖昧な記憶

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知り合いと食事をしている時、どういう経緯だかセサミストリートの話題になり、そこに頻繁に出ていた有名な男性カップルに話が及んだ。一方の顔はサッカーボールよろしくまん丸で、もうひとりはラグビーボールを引き延ばしたような長っぽそい顔だ。
名前がなかなか思い出せず、二人でしばし呻吟してやっと「バーニーとバート」ではないかという結論に達した。「どっちもバで始まるんだっけ・・」と知人は今一つ確信が持てない様子だった。

一緒のベッドに寝てるよね、と彼らがゲイであるか否かがアメリカで話題になったというこれもまた全然定かではない記憶が突然浮かびあがった私が言うと、知人は寝室のシーンなど思い出せない、と言う。自分はむしろ寝室で話をしているところしか覚えてないので、じゃ、どんなシーンを思い出すのかと問うたら、具体的には何も思い出さない、という抽象画みたいな返事が返ってきた。
色んなことが曖昧模糊としてきたのでスマホでググった。すると彼らは「バーニーとバート」ではなく「アーニーとバート」で、一つのベッドでなくランプを置いた小さなテーブルを挟んで別々のベッドに寝ていたのだった。

だからどうということもなくオチのつけようもない話なのだが、正解を確認してある程度気分がすっきりしたのは事実だ。
少なくともこういった単純な事柄についてなら、すぐさま答えの得られる世界に今我々は生きている。だからといってすぐに答えの出ないものが面白くなくなる訳でなくむしろそういうことこそ面白いのだ!、と思えるようになれれば、この世界の便利さもますます価値が上がるというもの。



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by zelan | 2018-01-28 23:33
2018年 01月 28日

漢方の功罪

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自分はよく漢方薬を飲む。何か具体的な不調をがっつり治すというよりも、体力気力を底上げするようなイメージでサプリに近い飲み方だ。とはいえ体質やその時々の状況などがあるので飲むものや量は漢方の医師に相談したりはしておりそういい加減に飲んでる訳でもない。ちなみに医師によれば自分が飲んでいる量は大体「三歳児」に処方するくらい、とのことである。
いずれにせよこれまでの経験から、漢方薬は非常に良いものであると私は思っている。

が、ひとつ注意すべき点は、自分の生活上の行いとその結果の因果関係が見えづらくなるということだ。例えば睡眠・食事・お酒・運動など、飲んでない時はあ~、昨日これをやったから(あるいはやらなかったから)今日こうなのね・・・、みたいなことが相当明確に分かる、というか少なくとも仮説が成立し、それによって体調に影響した行動を強化したり抑制したりすることが可能になる。
しかし漢方を飲んでいるとなんか全般的にそこそこ調子が良くなってしまい、こまかいブレが捨象されてしまって行為と結果の相関があいまいになっちゃうのだ・・・。よって生活習慣を意識的に改善していくことがなかなか難しいのである。

ということでここ暫くは自力主義でやってみようと思っている。

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by zelan | 2018-01-28 14:55
2018年 01月 27日

矢印考

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同じことをぐるぐる考えているとき、脳内矢印が明らかに内側に向かっているのを感じる。
一方、午後はどこに散歩に行こうかな、などと思いめぐらしているとき、この仮想矢印は外を向いている。

何かや誰かに向かう愛や憎しみも矢印だ。そしてそれらの色や形、大きさは、それぞれ異なっているのだろう。

自分の美術の先生が、「テーマとはそこに向かうものでなくそこから出発して遠くに行くためのもの。」とおっしゃったが、これもひとつの矢印である。

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by zelan | 2018-01-27 12:23
2018年 01月 25日

ハドリアヌスと副交感

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ハドリアヌス帝というのはローマ帝国全盛期、軍事と共に法律・文学などにも優れ人格高潔にして神のごとくあがめられた賢帝だが、歴史音痴の自分がこういうことを知っているには訳がある。女性として初めてアカデミー・フランセーズの会員となった小説家マルグリット・ユルスナール(1903 - 1987)の代表作の一つが「ハドリアヌス帝の回想」であり、これは自分の昔からの愛読書のひとつなのだ。

なぜ好きなのかといえばこの本が超絶的効力でもって自分を「落ち着かせてくれる」からである。死を間近に控えたハドリアヌス帝自身の言葉として語られるその大理石のように硬質で豪奢な文体、高貴なる浮き世離れ感それなのにまさしく真実そのものであるという感じは、生きていく上で免れない仕事や用事、その他さまざまな些事に翻弄され交感神経酷使系の自分をその一行でも読むや否や副交感神経が平和に支配する別世界に運んでくれる。いやむしろ「何やってんだ私・・」と我に返らせてくれるというべきか。

例えばこんな風(自分が持っている白水社刊 多田智満子氏訳より抜粋)

「規律正しい生活には必ず閑暇があり、自由な時間を作り出せぬ者は生き方を知らないのである。」
「わたしがローマをあまり愛さないといって人々は非難する。しかし、国家とわたしとが互いに力を試しあっていたこの二年間、狭い街路と雑踏する大広場と、古い肉の色をした煉瓦のこの町は美しかった。」
「永遠をめざすあらゆる人間の創造は、偉大な自然の事物の変わりゆくリズムに自分を合わせ、星辰の時間に合い応じてゆかねばならぬ。」

ハドリアヌス治世下の通貨には以下の文字が刻まれてあったとこの本には書いてある。即ち、

人間性(フマニタス)
自由(リベルタス)
幸福(フェリキタス)

この分かちがたく相関しあう3つを、自分の座右の銘にもしたいものだ。





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by zelan | 2018-01-25 23:37
2018年 01月 24日

ある休憩の思ひ出

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以前初期仏教に興味を持ち高名なお坊さんの何回コースかのレクチャーをカルチャーセンターに聞きにいったりしていた。1回が2時間程あって途中に休憩が入るのだが少し時間が押してしまった回がありその時お坊さんが「じゃ、これから1分休憩」とおっしゃるので1分だけ皆で静かにしていた。それから後半の講義が始まった。

自分の記憶の中では、この休憩こそがこれまでの人生の中でも特記すべき素晴らしい休憩だったのである。すっきりして活力が戻り、後半の講義も最後まで集中して聞けた。でもじゃあ、我々の普段の休憩ってなんなのかしら。なんでこんなにしょっちゅうそれなりの時間をとったり、それでもさほど休まらないというのがあるのか。

最近読んだ本に書いてあったが、例えば、何々を「やらなきゃ」と考えるだけで脳は若干混乱するそうである。やらなきゃ、ではやるのかやらないのか、やるとしてもいつやるのか、脳にとっては大層不足情報が多い状態らしい。これはなんとなく分かる。だから「やる」(あるいはいついつやる、またはやるのをやめる)、と、自分に宣言するのがいいとか。

上記の休憩では、事実上自分が自分に「休む!」と宣言した状態になったのかもしれない。それでもって生理的な状態にまで瞬時に影響した可能性が確かにあると思う。



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by zelan | 2018-01-24 22:50
2018年 01月 23日

分けられない

「感覚」、「思考」、「感情」について人は普段、当たり前のように別々のものとして認識している。でも実際これらの区別はつきづらいものではないかと自分は思う。

もともと一つである人の心の働きを文節しているから。これらは常に協働していて、どれかが他をリードしたり下に潜ったりしている。またその状況は刻一刻変化もしている訳で、結局の処上記の言を持って我々は、分かれえぬものを分け、その本体とは多かれ少なかれ異なるものとしてしかそれらを認識していないのである。

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by zelan | 2018-01-23 21:53
2018年 01月 23日

確率

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座ったままできる体操のDVDを買ってきた。座ったまま・・・の時点であまり運動をしたくないこととそれでもせねばという気持ちのせめぎ合いがよく分かる。せめぎ合ってる以上、自分がこれをちゃんとやる確率は恐らく50%前後・・・。
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by zelan | 2018-01-23 09:02