原初のキス

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2011年 01月 31日

手段

何かを主張する手段のひとつとしてハンストというのがあるが、自分はハンストは生命への軽視ではないかと思う。生きているから、また生きていくために、これはまずいと思って真剣に意見し、活動するのだから、まずその前提の生命を傷つけうる方策を自分に対してであれとるのは、理性的な態度ではない。そして大概の問題は、理性というものを失うことからきているのだ。その人たちが、「行動せねばならない」と思った問題にしても。
というえらそうなことを言うからには、自分であれ他人であれ他の生命体であれ注意してできる限り傷つけないようにしたいと思う。これはなかなか難しい仕事ではある。
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by zelan | 2011-01-31 21:22
2011年 01月 27日

Ai Weiwei Cube Light展

Misa Shin Gallery(白金)、Ai WeiweiのCube Light展へ。
大きな立方体のインスタレーション、奥にはひまわりの種のオブジェ。
感覚的にはそれなりに楽しんだが、知的にはどう理解しどんな印象を述べていいのかとまどう。プレスリリースを読まずに行き、未だ読んでないのだが、そうすると作品を見ても「なんだか全部見てない、鑑賞していない」という感じがするのは、作品自体のせいなのか、自分における作品鑑賞の感覚が変わってきたのか。
くどいようだが同じことを別の言い方でもう一度言うと、説明を読まないと完全には見た気がしない、というのは、作品側の性質のせいなのか、鑑賞者たるこちらの問題なのか。

あるいは、今アート作品と自分を含む社会との関係性というのは、単に作品それ自体の目に見える形で展開されているものの範疇を超える拡がりの中で、全体として体験されるべき(あるいは体験することが少なくともこれまでよりもより期待されている)ものになっているのか。すべてではないにしても、そういう多くの作品があるということか。それとも作品というものは、いつの時代も多かれ少なかれそうだったのだろうか。

こんな風に考えていると、自分の頭が良くもなければ、何かものを考える上で武器になる知識もないことに少々あきれてしまうが、でもこんな風にしか考えない人間がいても、社会の進歩のさまたげにはならない気もする。悪いけど自分は、たくさんものを知りすぎている人間、何かの体験に際して、自分の感じる以上のものをことさらに求める人間には、ならない方がいいのかもしれない、と思う。

という訳で、Ai Weiweiという偉大なアクティビストの作品を前に、極私的な感想に至ったのである。

MISA SHIN GALLERYAi Weiwei/Cube Light
http://www.misashin.com/
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by zelan | 2011-01-27 20:09
2011年 01月 26日

歩きざま

ドーベルマンのラブ君について、別のことを思い出した。
ラブ君の飼い主はお金持ちだったので、彼はコンクリート打ちっぱなし(で、暖房つき)の部屋を自分専用にあてがってもらっていた。私がそこの戸をあけると、大抵部屋の奥の方に座っていたが、私をみると立ちあがりそろーりそろりと、1分間に1メートルも進まないくらいゆっくりゆっくり、近づいてきた。ほかのときはそうでもないのに、このシチュエーションだとかなりの確率でそういう風に動くのだった。

後で調べてみたら、犬がそういう動き方をするのは、「獲物をねらっているとき」、ということであった。
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by zelan | 2011-01-26 20:32
2011年 01月 24日

名前

以前書いた知人のドーベルマン(ラブ君)の血統書上の正式の名前が、「サムライ・オブ・ハラセガルデン」であった(ハラセガルデンは彼の生まれた犬舎の名前)。いまだにすべての名前の中で、これは最高度にかっこいい名前だと思っている。

名前というのものはおもしろいものだ。ラブ君は、自分にそういう名前があることを、知りもしなければつまりは気にしたりもしなかっただろうが、現実のレイヤーのどこかひとつで、そういうレッテル的なものが存在し、勝手に彼に貼られていたのだ。

だから、「ラブ!」と言えば私の方に寄ってきた彼だけれど、「サムライ・・・」と呼びかけても「ん?」という感じだっただろう。

いやどうなのかな、自分がさほど嫌いでもないいつものこの人が自分に対してなんか働きかけている、と思って(感じて)、私の方に走ってきたかもしれない。
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by zelan | 2011-01-24 00:08
2011年 01月 17日

美術やなんかで、白いものが見たい気がし、白いものが創りたいとも思う。
それを絵を描く知人に言ったら、まず、自分の中を白くすることだ、と言われた。
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by zelan | 2011-01-17 23:01
2011年 01月 15日

幻想無用

自分の中に、「ほんとうの自分」幻想があまりないのがありがたい。どうしてそうなっているのかは、わからないけど。

一方ほかの色んな幻想やら妄想やらなら、売る程ある。
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by zelan | 2011-01-15 23:53
2011年 01月 13日

モデルとおじさん

電車に乗っていたら、すらっとした見るからにモデルさん風の外国人の女性が数人、私から少し離れた席に座った。へそから下がすべて脚かと見えるほどに、格好よかった。
彼女らが通りすぎるのを興味深げに見ていた私のすぐ横に座っていた40~50代のサラリーマンの集団のひとりがしばらくして、「オレたち、勝てるとこいっこもないよな・・」と力なくつぶやいた。

おじさんという存在がいいなあ、と思うのはこういうとき。肉体的にはたしかに、いわゆる勝てるとこいっこもなさそうではあったが、この冷徹な客観性というものは、心底称賛に値する。
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by zelan | 2011-01-13 21:44
2011年 01月 12日

正月と柴犬、歯医者とげっ歯類

友達のひとりが、正月は街で柴犬を見かけることが多い、と主張している。一方私の観察では、歯医者の看板にはげっ歯類(ウサギやネズミ、ときにビーバーなど)が描かれていることが多い。
これは多分アフォーダンスに関連するのだろう。正月は和の風習などで、いつもより和っぽい柴犬を外に連れ出したくなるのかもしれないし、歯医者の看板のげっ歯類はいかにも歯に関して頼もしそうだ。

アートにしても、今PCやなんかで新たにできるようになった視覚及び体感覚などと相似するように、作品を方向づけることで、結果として新しく、今この瞬間に適切な感じがする表現が生み出されるのかもしれない。逆に既に多少古臭い感じに見えるものも、皆歴史的にはそのときどきの精神的・物理的・社会的状況に関するアフォーダンスを有してきたと思う。アフォーダンスが成り立っていた間、それらは古くなかったに違いない。
真理や普遍だって、短期のものと長期のものがあるのだろうが、なるべく長い生命を持つものに沿っている方が、例えば作品だったら、長い間一種の「現代性」を持ち続けるということに、理屈としては、なる。
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by zelan | 2011-01-12 21:32
2011年 01月 10日

言葉

言葉というものを自分は基本あまり信用していないところがある。言葉で表現できることはたかがしれており、その一方で方向づける力があまりに大きい。

でも、言葉がなければ、変わらないこともある。
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by zelan | 2011-01-10 23:03
2011年 01月 10日

別名

四足動物(具体的には、うちの犬)について、前足は人間で言えば手あるいは腕なのかしら、とふと考えた。その話を知人にすると彼が、それは「てあんよ」だよ、と言った。では後ろ足は、と問うと、「あしあんよ」ということであった。
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by zelan | 2011-01-10 00:59