原初のキス

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2010年 11月 30日

勉強

前にも書いたけれど、「勉強しなければ」と当たり前のように言うと、勉強しなくていい、むしろしてはいけない、と言ってくださる方々がいる。
一方、勉強はだいじだよ、と言ってくれる人もいる。すごく勉強している人々で、その結果もあって(それだけではないけれど)自分が尊敬している人たち。
その人が経験から、ほんとうの言葉として言ってくれているのであれば、いずれの言葉もともに貴い。
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by zelan | 2010-11-30 17:33
2010年 11月 27日

Only by your conduct.

以前このブログで書いたかもしれないが、前の仕事の関係でアメリカの優秀なベンチャー企業と会議をしたとき、その会社は半導体を作っている会社だったがどのようなアプリケーションに利用可能なのかを質問した。
すると、その制限は「Only by your imagination.」という答えだった。
何にでも使いうるけど、それを制限するのはあなたの想像力だけですよ、というような意味。

一方自分にはやたら行動力のある友達がいて、彼は「想像だけなら誰でもできる」と言う。
なんだって考えるだけでやらないことが、ほんとの問題なのだと。

だから彼に言わせると、能力を制限するもの、それは「Only by your conduct.」なのだって。
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by zelan | 2010-11-27 01:45
2010年 11月 26日

質問

ぬれていてあついもの、かわいていてつめたいもの、つめたくぬれている、あつくてかわいている、自分は(あるいはあなたは)どれが、好きか。

自分はといえば、つめたくぬれたもの。
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by zelan | 2010-11-26 22:40
2010年 11月 26日

右ひじ

このところ右ひじの前腕外側の筋肉が、ものを取ったりするときほんの少々痛くて、数日自分のからだの使い方など観察してみると、すべてではないにしてもひとつの重大な要因というものを発見した。
いつも使っているバッグから財布を取るとき、財布をしまっているポケットが少し小さいがために、結構力を使ってひっぱり出しているのである。

とはいえ、だいたいの場合バッグを右肩にかけていることとか(ときに左にもかけるようにしてそれに慣れるなら右側の負担はやや軽くなる)、財布を取るときにもう少し上体もその方向に向けたり、自分の場合今よりもやや親指や人差し指側に力を入れるとか、そもそもポケットの口の大きさが財布に合ったものを使うとかすればこの結果は今の通りにはおこらないであろう。ものみな因果関係の網の中にあるので、何かの条件が変われば、結果も変化していく。要はその因果関係のなにがしかに対し、必要があるときに、意識的になれるか否か、意識的になることを、選択するかどうか、ということだ。

そういえば以前小笠原流礼法というものを学んでいたとき、どうしようもないときを除いて「ものを手探りで探す、取る」ことの下品さというものを教えられたのが印象に残っている。手探りというのは目線も、体軸も、動作や動作が目的としている対象に対してうまく沿っていないことが多い。たとえばこういうささやかな動作の積み重ねで、からだはすこしずつ傷んでいく。一日とか短い単位でいえば、数ミクロン程度の変化かもしれないけれど。

そういう意味では、「大事」は常に「今」にある。
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by zelan | 2010-11-26 00:50
2010年 11月 22日

ひびきとふるえ

モノにノイズが混じっているとき、モノは震えない。
モノにノイズがなくなった途端に、震え始める。
この感覚って何なのか。

手元で何か創っているときも、外のものを見ているときも、あるいは音楽などを聴いているときも、この感覚はときどきおこる。ノイズというのは、「余計なもの」という程の意。たとえば微細な画面の汚れとか。モチーフの運動性の狂いとか。視覚あるいは聴覚と、体感覚が交差する感覚かと思うが、もしかしたら自分だけが感じているのか、そんなはずないとは思うけど。こんな風に表現する人は、多くはないかもしれないが、皆同じようなことを、感じているのではないかしら。

昨日食事をしていたとき隣の席の若い男女が物理系の方々らしく、話題がもっぱら「共振・共鳴」のことであった。興味を持って帰ってからグーグルで共振現象の原理など調べてみたが、物理的な説明以上にニューエイジのサイトばっかりひっかるので辟易した。共振ってそういう世界なのか・・。
自分は批評的言語を持たないのでこういう言い方になってしまうが、美術作品などでもいいものを見ると、わんわんうなりながら激しく震えているように見える。脳の中で、感覚情報が、瞬間ごとに刷新される。これも一種の共振現象なのかもしれない。

震えるといえば以前部屋のどこかからブーンと高周派の音がしたので探したらイスラエル製のガラスの小瓶が飾り棚の中で激しい勢いで振動していたことがあった。目に見えないくらい速いので瓶の輪郭がぼやけるほど。別のとき新宿のとんかつ屋さんで、おみそ汁の椀を店の人がテーブルに置いたとたんに蓋がブルブル震えだして5メートル四方にゆうに聞こえそうな音がしたのでびっくりしたこともあった。この話をした知人の出版プロデューサーの女性は、「あら、うちのおみそ汁の蓋もしょっちゅう鳴るわ。」と言った。ニューエイジの人が聞いたらがっくりするかも(しないかな・・)しれない話ではある。
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by zelan | 2010-11-22 20:22
2010年 11月 21日

オンラインストップウォッチ

東大教育学の中原淳准教授のツイートで知ったオンラインストップウォッチ、あまり気の進まぬことをするとき30分だけかけてスタート。結構重宝している。
「気の進まぬこと」も、やっているうちにそうでもなくなることに気づくのにもなぜか役に立つ。

時間が来たときに鳴るベルの音には毎度飛び上がるほど驚いているけれど。

http://www.online-stopwatch.com/
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by zelan | 2010-11-21 20:09
2010年 11月 19日

縁側の歌麿

サントリー美術館の「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎」展へ。
浮世絵の喜多川歌麿、東洲斎写楽などを売り出した版元蔦屋重三郎の業績を関連の作品と共に総覧する展示。特に歌麿は随分と魅力的な作品が数多く展示されている。

昨年あたりから浮世絵を結構見ているのだけれど、それにしても浮世絵の名品のミクロコスモスっぷりというのは毎回かなりの衝撃を受ける。さりげなく置いてある煙草盆のまわりのちりちりした模様、脇役?の人のかんざしの部品?のきらめき、遊女の洗いたてのような足指のちいさな爪、傘の骨一本一本の上にうっすら積っている雪などを見ていると、表現がいわゆるリアリスティックというよりは表象化されているのに、異常にほんとっぽいという感覚のギャップのおもしろさとあいまって、これらを陽のあたる縁側(あれば)にねそべってじーじーまったりと眺めていることは、この世の贅沢のかなり上位にランクするのではないかと思えてくる次第。

浮世絵の少なくともひとつの使い方というのは、じーっと見つめて細部を堪能すること、そう確信する。

サントリー美術館 「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎」展
http://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/10vol04/index.html
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by zelan | 2010-11-19 23:51
2010年 11月 15日

気をひく

かえって傲慢な言い方に聞こえるのが嫌だけど、自分は絵を描きたいと思ったことは一度もなくて、ただ支持体の上でなにかに妨げられていない天然の「現象」が展開するのを見たいと思っている。それを邪魔せずに、でも誘いをかけるような、そういう行為や技法に興味がある。
従って自分にとってものを創るという「一見自分がやっているような行為」は、自分がやっているのではない事象におでまし頂くために、多少なり意識的にばたばたするという、そういう行為となる。
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by zelan | 2010-11-15 21:53
2010年 11月 13日

展示写真

実の処は見なければわかならない、ことは理解しつつも、展示の詳細なフォトレポートなどがWebにあがっていると興味深そうな内容であってもつい現場に行かずじまいになってしまうことがある。視覚的情報はもう少し控え目に出してほしい気もする。

元の作品にとても大きな力があるとき、その写真情報においてその力はほぼ必ず激しく減衰している、一方、作品がそれほどでもないとき、写真の方がよく見えるときが多い。音楽におけるCDと同様の現象。だから、結局やはり、写真では正確に判断するのは難しい。足切りをする程度。
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by zelan | 2010-11-13 09:28
2010年 11月 12日

そうなる

先日絵を描く知人と話していたら、彼が、「思ったようには決してならないが、やってるようには必ずなるんだよね・・」というような発言をするので笑ってしまった。

まさにそう。彼は、とほほ・・、というニュアンスで言っていたが、このことは、できるなら超克を目指していくべきことなのかしら、それとも味方にしていけばいいのか。
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by zelan | 2010-11-12 01:49