原初のキス

zelan.exblog.jp
ブログトップ

<   2010年 06月 ( 16 )   > この月の画像一覧


2010年 06月 30日

2010年6月30日 学びということ 

以前半年ほど、どういう訳か粘土を狂ったようにいじくっていたときがあって、回転台があるといいなあ、とか、創っているものの底辺と目の高さがあまり違っているとうまく形がとれないということに数か月かかってじわじわと気がついていった。専門的美術教育のバックグラウンドとは違う自分が後で買った美大の彫刻科の教科書には、これに類したことが全部書いてあった。

一方、先日、絵のとてもうまい知人と話していて、彼が、そもそも絵を人に教わろうとするなんて、そういう考え方がまちがってる、と言ったのだが、彼自身が人に師事していた経験があることからもわかる通り、これは真実でないとも言えるし、明らかに真実である側面もある。
つまり世の真実とは、ひとことでは片付かないものではないかしら。私が自分で気づいた事実と、教科書に書いてあった事実は私にとって同じか、否か。また、私がそれをもっと早く知っていてうまく実作に活用できていたとしたら、そのために私にとって必要だったことは、単なる知識以外の何かではないか。
[PR]

by zelan | 2010-06-30 22:28
2010年 06月 24日

2010年6月24日 言葉、イメージ、感覚

ものすごく気が散りやすいたちで、ある意味それに対抗するために、ものを創ったりしているのである。
例えば「東急ストア」という言葉を聞いたり考えたりすると、フロアの様子、店員の方々のたち働く様子まで「見えて」しまって、うっとおしいことこの上ない。
だいたい、現実がこの通りとは限らないし、いやむしろ細部にわたっては絶対に違うはず。ということはつまり、想像したとたんに、現実はその通りではありえないという事実を、創りだしているようなものだ。

言葉が言葉でしかなければ、こんなめんどうなことにはならない。
言葉にはイメージがくっついている。そのくっつきが弱い人と強い人がいて、自分はすごく強い方。
生きていれば色んなものが目に入る。そこでその現実の視覚と、言葉と(自分で思考していることも含む)、言葉に伴うイメージがすごい勢いで干渉し、あるいは一方が一方を瞬間瞬間、駆逐しあうのである。  

だからこそ、ほんの何分かであってもいいから、からだとだけ一緒にいて、その感覚だけを観ていると(少なくとも不快でないときがいいが)、突如としてものすごく大きなエネルギーが供給される。
つまり、感覚そのものに「言葉」はないということ。同意する人が、どれくらいいるかわからないけど。

これは何を意味しているか。
我々が感覚とだけ共にいるとき、我々はすべての混乱や懊悩から、解放されているということである。
[PR]

by zelan | 2010-06-24 23:00
2010年 06月 21日

2010年6月21日 美術の筋トレ

丁寧にやるとかがむしゃらにやるとかというよりアラートに(注意深く、目覚めて)やるという方が、制作においては100倍もワークする。

といっても、感覚というのは常に言葉なしで「答え」を提示してくる。つまり感覚は常に、自分こそ正しいと主張している。我々が感覚に対しアラートでいることは必須だけれども、同時に、信用しすぎないことも重要。
感覚は訓練されていないサラブレッドみたいなもので、その能力はとてつもなく大きいが、たいていの人間にとって、単なる暴れ馬にしかすぎない。

もし、美が今そこにあるなら、それに気づくことが必要だ。ないものを出現させようとするのでなく、より美しくしようとするのでもなく。美術の鍛錬というのは、気づく力、そして、美しいものの命を保ちながら、それを減衰させず増幅する動きについていく力の筋トレ。
[PR]

by zelan | 2010-06-21 00:45
2010年 06月 17日

2010年6月17日 交通

絵を描いているとよくわかるが、抽象の中には具象が、具象の中には抽象が隠れている。

抽象的な形態を描いてその細部を切り取ったり拡大したりすると、人や風景、その他の事物に似たものが見えてくる。逆に、現実に存在するものの一部を見つめていると、その形態は抽象図形あるいはその組み合わせのように見える。

これは現実がそういう成り立ちを持っているということか、それとも人間の脳に、そういう風に認識する癖があるということか。
[PR]

by zelan | 2010-06-17 23:02
2010年 06月 14日

2010年6月14日 スクリーンセーバー

皆知っているとは思うけど、Windowsのコントロールパネルからデスクトップのカスタマイズでスクリーンセーバーの画像のホルダが選べる。自分のイメージのアーカイブをホルダにまとめておけば、ちょっとした休憩の間にも、自分がどういうイメージが好きか、とか復習と考察ができる訳だ。「これは忘れてはいかん」という名言集なども入れておいたら、日々利口に、なるかしらん。
[PR]

by zelan | 2010-06-14 21:55
2010年 06月 13日

2010年6月13日 ふつうのこと

我々の一挙一投足が、この世に存在する生命体にとっては一種の刺激である。だから、私は自分の創りだす刺激が、なるべく美しく、他者にわずかな危害も与えないものであってほしいと思うけれども、もちろん必ずしもいつもそうであるとは限らない。
どのように受け止めることも、その相手の自由である。あるいは、その人のそれまでの行為や現在の環境からの、必然的結果である。それらを制御することは、できない。
[PR]

by zelan | 2010-06-13 20:50
2010年 06月 12日

2010年6月12日 制作と人格

さる高名なギャラリストの方が、制作する人も美術馬鹿ではだめで、人間力が必要、とおっしゃっていたが、やたら矮小化したレベルかもしれないが自分自身人間力の重要性については日々感じている。それは自分が関係する人々とのできる限り真摯なコミュニケーションなどであることはもちろん、例えば道具の整備とか、自分の心身の状態に対して、創りつつある作品同様注意を払っておくこと、など。これらも広義の「人間力」に入ると思う。
[PR]

by zelan | 2010-06-12 23:21
2010年 06月 11日

2010年6月11日 集中力と姿勢

「集中力」といい「姿勢」と言っても、その言葉が実際の人間の意識が広く的確に目覚めていること、とまっているように見えても微細に動いている、その動き全体の質について表現するにあまりに不適切な気がする。
ただイメージとしてはとらえやすいので簡単に言えば、集中力と姿勢は関係があり、精神的な集中がとぎれるから姿勢が悪くなるだけでなく、姿勢が崩れてくるから集中力が減ってくるとも言える。陰陽のシンボルのように、これらはぐるぐるとまわっている。
[PR]

by zelan | 2010-06-11 22:53
2010年 06月 10日

2010年6月10日 整いました

絵を描くとかけてお米といでる、ととく。と、絵を描く知人が言った。
そのこころは、食べたくてやってるんだけどその瞬間は決して食べてない、だって。

絵を描く動機があるということは、何かを目指しているのだけど、絵を描いているそのときに目指しているものに到達しているという状態は、全然ないことはないかもしれないが確かに限りなくまれなことではある。理想的なまでに達成できた完成の瞬間、はそうかもしれないが。

いやむしろ、何かを目指している、と思うこと自身が問題なのかな。何かの結果を目指すのではなくて、ありうべきプロセスそのものと一体化していることが決定的に重要なのかもしれぬ。

もっともそのありうべきプロセスというのがどういうものなのかが、観察と探索の対象だったりするのだけれど。
[PR]

by zelan | 2010-06-10 20:18
2010年 06月 10日

2010年6月9日 ぶらさげ文化

電車に乗っているときなど人の様子を観察していると、電話やバッグにチャームみたいのをつけている人が結構多い。自分は携帯にストラップすらつけない程この方面にはうといのだが、ものに何かをぶらさげるというのはかなり日本的心性を反映しているのではないかしらん。昔から刀につける根付に凝る人々がいた訳だし。

ところで見ていると圧倒的に多いのは動物のチャームで、中でも「熊」をつけている人が多い(他はうさぎや猫など)。なぜみなこれほどまでに熊が好きなのかはナゾだが、本物の熊はともかく、キャラクター化された熊はリラックマよろしくヒーリングな感じがするので、みんなヒーリングを求めているのかなあ、とちょっときのどくに感じるのである。
[PR]

by zelan | 2010-06-10 00:07