原初のキス

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2010年 02月 28日

2010年2月28日 見たまま

作品のタイトルって凝ろうと思えばいくらでも凝れるのかもしれないけど、以前シュテファン・バルケンホールというドイツの彫刻家の展示に行ったとき、確かひっくりかえった縞馬の彫刻があって、題を見たら「ひっくりかえった縞馬」で、すごおくおもしろかった。素朴に見えるけど力強くてかっこいい彼の彫刻に見たまんまの題、というのがあまりにぴったしだったので。
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by zelan | 2010-02-28 00:18
2010年 02月 27日

2010年2月27日 単純

人生、結構複雑そうには見えるけれど、そのときどきにおいてやるべきこと、やらざるべきことなんて、各3つ以内ぐらいに納まるのじゃないかしらん。
しかもそれらは人間かなり理性ではわかっていて、要は単に理性の声に従ってそれをやるか、やらないか、ということなのだ。
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by zelan | 2010-02-27 00:04
2010年 02月 26日

2010年2月26日 安心中毒

世界的に有名なドイツの画家、gerhardrichter(ゲルハルト・リヒター)というツイッターのアカウントがあったのでのぞいてみたら、「我々は彼のチーム。彼自身は制作で忙しいので。」というようなことが書いてあって笑ってしまった。

ネットを介して情報を発信したり、入手したりというのは、どうしても基本的な必要性を超えて過剰になりやすい。
その理由は、自分の「行為」に対し、「反応」が明確だからというのが私の解釈。
何も自分の発信情報に対し具体的にコメントがくるとかこないとかいうことを言っているのではない。メールボックスを開ければ、新しいメールがたとえ入っていなくとも、メールが来ていたか、来ていなかったかは確実にわかるし、ツイッターで数十人以上フォローしていれば、1時間間があけば新しいツイートが入っているだろう。自分のブログのレポートのリンクをクリックするとユニークユーザー数やページビューの状況が必ずわかり、ある日突然、ユニークユーザー数が表示されるべき場所に、「今日はたぬきがウラジオストックで目玉焼きを焼いています。」と書かれているなどということは、ほぼ絶対にない。いわば養老孟司氏の言う、こうすればああなる ああすればこうなるの世界。

一方、現実の世界ときたら、この人は信用できる!と思っていた人がとんでもない人だったり、レストランを探して道に迷った先で目的としてた店の10倍いい店をみつけたり、10時間制作をがんばっても今一つ離陸しない日もあれば、風呂上がりに寝巻になって立ったまま5分で創ったものがいいできのこともある。不確実であることこの上ない。
だからネットというのは、コンテンツというより少なくともその「操作」と「レスポンス」ということにおいては、すべてが予定調和的なもので人を極めて「安心」させる。しかも何回も何回も何回も、その安心を無限に確認し続けることができるのである。
ネット中毒とはすなわち、一種の疑似的安心中毒なのだ。
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by zelan | 2010-02-26 00:08
2010年 02月 25日

2010年2月25日 焦点

コラージュの素材を動かしているときなど、眼の焦点がぱしっとあう感じがするところがある。イメージの強度というよりこれは素材間の運動性や位置関係が「リアル」になったとき。別の言い方をすれば構図が決まったとき。構図ってなんなのか、アートと商業美術って一番違うのは構図だと思うけど。絵画と写真もそう。

美術家の北川健次氏に、構図の理解を深めたい、というようなことを言ったら、それよりも人間の視覚の原理をよく理解した方がいい、と言われた。平面上のイメージを目がどう追うかというのは、結構生理に基づいている。左上から右、左とジグザグに動いたり、もちろん目立つものに意識を焦点化するとか、そもそもその目立つモチーフは何によって目立たせられているのかということもある。

構図と言っても、平面美術において他から切り離されて独立に存在しうる要素の一つという訳でなく、絵画という「森羅万象」を含んだ現象の、ほんの一部を言い表したものにすぎない。
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by zelan | 2010-02-25 00:09
2010年 02月 24日

2010年2月24日 コラージュ知名度マップ

コラージュというものが何かを知っている人は、日本では意外にも、非常に少ない。相当数たまってきた個人的データによれば、それを正確に知る人は男女含めて100人にひとりいるかいないかだ。

特に日本人男性で直接美術に関係しない職業の人たちにおける知名度ははなはだしく低い。知っている人に会って驚いたら、ご実家が画商だったことがある。男性に比べると女性の方が知っている人が若干多い。
ところで、たまたまヨーロッパ人と接触を持つことが多いのだが、未だかつてコラージュを知らない人に会ったことがない。100人いたらほぼ全員知っている。屏風って何なのかを知らない日本人がいないように。

コラージュの知名度マップを作ったらおもしろいかもしれない。
コラージュを知っている、知っていないは、おそらく、文化的な何かと連動している指標である。今、中国と日本、あるいはシンガポールでは、どちらがコラージュの知名度が高いのだろう。

もちろん嫌味で言ってるのではないので、念のため。コラージュを知らない人にその話をするのは、楽しい。頭のいい人なら、それはビジネスでもプライベートでも、普段から結構やっていることですね、とわかる。

それに、自分自身がほんとうにコラージュを理解しているのか否かというのは、常に気にかけていて損はない質問。あるいは理解というものは、何か究極の状態を目指すものではなく、常にその地平を切り拓くものなのだ(おおげさ・・?)。
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by zelan | 2010-02-24 00:01
2010年 02月 23日

2010年2月23日 言葉もさわる

私は羊の肉があまり好きではないので中に入ることはないが、ジンギスカン屋さんの前で「生ラム」という字を初めて見たときは衝撃だった。
なまらむ・・・語感がヘン、ニョクマムみたい・・。
「まらむ」の部分が特にすごい。
ぬらっとしている。「まらむー」と暗闇で100回となえると必ずや何か出てきそう。
こういう言葉は字で見たとしても、聴覚・触覚をダイレクトに刺激する。
どの五感を主に使っても多かれ少なかれ他の感覚は影響を受けているけれど、絵をみても目中心に訴える型、体感覚中心型などがある。自分の好みでいえば、からだ(筋肉や体軸)に訴えるものが好きで、音についてはあまりというか無音の作品が好きだ。
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by zelan | 2010-02-23 00:55
2010年 02月 22日

2010年2月22日 完璧!

意味のない完璧主義というものが、自分でもけっこううざったいのだが、貝原益軒の「養生訓」に下記のような記述があり、深くこころに沁み入った次第、

「すべての事、十分によからんことを求むれば、わが心のわづらひとなりて楽なし。(中略) いさゝかよければ事たりぬ。十分によからん事を好むべからず。是、皆わが気を養なふ工夫なり。 」 

「いさゝかよければ事たりぬ。」か、いいなあ。座右の銘としたい。

完璧主義の人に限って、そうでない人より完璧からほど遠いことは明らかなのであって、要は完璧であろうとするような、実現すべくもないことに妄想エネルギーを費やしているが故に、基本的なことすらなおざりになることが多い。

まっとうな人間になりたい、と、いつも思っているのだが、これがなかなか難しい。
不可能だ、と思わないようには、しようと思っているけれど。
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by zelan | 2010-02-22 00:04
2010年 02月 21日

2010年2月21日 欠けたものの力

心理的であれ物質的であれ、欠けているものを埋めようとすることに、我々は血道をあげる。
欠落というのは、まさにそこに存在していないがゆえに、あらゆるものの内でも最も強いエネルギーを有するもののひとつだ。
アートの表現で、饒舌という方向に自分が魅力を感じないのはそのせいもある。
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by zelan | 2010-02-21 00:26
2010年 02月 20日

2010年2月20日 ファミレスで昼すごす

70代の知人女性とそのだんなさんに会った。
だんなさんが知人をさして、「この人、昼間3時間くらいファミレスにいってぼーっとしながらタバコふかしてるの。何考えてるんだ。」とあきれたように言った。
すると彼女が、「これまでの人生の反省をしている。」と、真顔で答えたのである。
毎日のように反省に膨大な時間を費やしていることは、反省の対象とはならないのだろうか。

しかし、似たようなことを自分もやっているのではないかと、ふと思った。
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by zelan | 2010-02-20 00:51
2010年 02月 19日

2010年2月19日 父のために

私のはじめての個展は、10歳位のときに父のために家で開いた展示。
夕方からサインペンやなんかで色々な紙に色々な絵を描き、弟の部屋が丁度いい大きさだったので一面にそれを貼って、父の帰りを待った。
ひととおり観てから彼は、着物の女の人が雨の中、狭い路地で立っている絵が一番好きだ、と言った。今でもはっきり覚えている。

それから随分とたって、父が亡くなってまだ何年もたたない頃に、当時勤めていた会社の仕事でメキシコに出張した。
ソンブレロをかぶった楽隊が各テーブルをまわってチップをねだるうるさいことこの上ないレストランで、同席していた教育学者が、「子供が言葉を覚えるのに一番いい方法は、親が読み聞かせをすることだよ」と言ったのを聞いて、涙を抑えるのにとても苦労した。
文字を覚えたてのころ、同じ布団の中で私の好きな犬の絵が入った本を父が読んでくれたのを思い出して。それを聴きながら、「ち」と「さ」の字の違いがよくわからないなあ、と感じていた自分と一緒に。

何かを創るということは、実体的であれ仮想的であれ、総体的であれ個別的であれ、「誰か」に向かっての行為であることもできるし、「自分」や「真理」に対してだけ向かう行為であることもできる。それぞれの立場をとることによって、創るものはどのように、変わるのだろう。
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by zelan | 2010-02-19 00:14