原初のキス

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2010年 01月 31日

2010年1月31日 そんな単純なことが

知識を体系化する、あるいは、体系化された知識を吸収することにあまり興味がなく、つまりは「勉強」が嫌いな訳だが、なぜならそういう体系的知識の中には、自分にとって直接関係がなくて実用性のないものが、必然的にたくさん混じってくるからである。
もちろん、すべては連関しているから本質的に完全に関係のないものはないけれど、時間やら能力やらの制限もあるし、何かを体系的に勉強したり情報を集めようとするとなんだかすぐかったるくなってやめてしまうんですね。というか、最初からそういう方向性には近づかない。

と、いう前ふりでワインについて。ワインの知識がほとんどなくて、シャトーやらドメーヌやらグラン・クリュやらその他用語の意味を知らないのはもちろんのこと、どこそこの国や産地がどんな特徴かなどもさっぱりわからない。
でもワイン好きの友達とよくワインを飲んでいるうちにわかったことは、自分のブドウの好みは確かにあるということ。私の好きなのはアリアニコ、ネロダヴォラ、モンテプルチアーノダブルッツォ、ネグロアマーロ、カベルネソーヴィニヨンなど。だから、ブドウだけソムリエに聞けば、めちゃくちゃ外れることはない。
もっともフランスのワインはブドウがブレンドされていることも多いので話はちょっと複雑になるけれども、自分は単一種で作られているワインがどちらかと言えば好きなので支障がない。だってフランスワインは香りも味も複雑でいいけれど、個性はいくらか緩和される。たとえば良家の子女ってどこの国の人もなぜか皆似たような雰囲気をかもしだしているが、そんな感じ。単一のブドウの多いイタリアワインは単刀直入で、たとえとしては国は違うがドイツの写真家アウグスト・ザンダーの色んな職業の人を撮った写真のように、それぞれにキャラの立った存在感がある。

「ブドウのことだけ知ってれば、まあ大丈夫だよねー」とそのワイン通知人に言うと、そうだという。もちろんこれは、ワイン道を究める、とかソムリエになる、というのとは別次元の、一般の人が自分の嗜好にあったワインを飲むことに関するちょっとしたノウハウにすぎないが、それにしてもそんな単純なことがなぜ世の中でわんわん言われずに、なんたらかんたら難しいうんちくばかりが横行するのか、私にはよくわからない。

ところで昔飲んだビオワインは強くて個性的で深みもあってすごくおいしかった気がするが、最近よく日本で出まわっているのは全般的に浅くてさっぱりの感じが多く、ほとんどワインかジュースかのキワを狙ってる感じすらしてしまう。とはいえ、ブリューゲルの絵の中でよぱらったりしている人の飲んでいたワインは、私の好きな濃くて洗練されたビオか、さっぱり素朴なビオか、どっちなんだろうか、わからないけど。
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by zelan | 2010-01-31 00:03
2010年 01月 30日

2010年1月30日 名詞にやさしい世界

インターネットというのは、基本的に名詞(特に固有名詞)との親和性が高い。端的に言えばグーグルだって名詞で検索することが多い。「歩くということの本質って何?」、と疑問に思ったときネットを活用することはもちろんできるけれど、「デューク更家のウォーキングエクササイズ」(最近どうなのかな・・) について調べる方がずっとラク。

安西徹雄の「英語の発想」(ちくま学芸文庫)を読む。
英語は、ある状況や出来事を言語化するとき、論理的に分析してひとつのアイデンティティーを有する項を抽出し<もの>として名詞化、それらの相互関係として表現する。一方日本語は、状況を分けずに丸ごとすくいとり、名詞に還元せずに<こと>的捉え方をする、とある。英語が、主語必須で、関係代名詞を糊としていくらでも長くできる名詞中心に組み立てられているのに対し、日本語はしばしば主語を省略でき、動詞を中心に組み立てた方が文が自然になることからもよくわかる。
ネットって今やなくてはならないものだけれども、やはり強烈に西欧文明の歴史的文化的基盤の上に発生しているものだから、日本人の言葉の使い方や考え方ともともとはしっくりくるものではなかったかもしれない。でもこれからは考え方自体も、きっとそっちの方向にじわじわともっていかれるんだろう。

このブログはどちらかと言えば固有名詞より一般名詞、動詞的な内容(創るとか見るとか)の記事が多い。固有名詞をたくさん織り込んだ方がアクセスは上がるが、こちらの頭の中身を変える訳にもいかないので、このままでいくことにする。

固有名詞充満の世の中にありながら、読んで頂いている皆さまに感謝します。

「英語の発想」 (安西徹雄著)
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by zelan | 2010-01-30 00:13
2010年 01月 29日

2010年1月29日 ニッポンのセクハラ

日本の男性はセクハラを大変恐れているのに、なにがソレであるかを知らないためについしてしまうことがある。
たとえば、手相を観るといって女性の手に触ったり、凝ってるの、とか言って首や肩に触ること。男性からすればおそらく自分の快楽もさることながら、相手の反応を読んだり、信じがたいことだが触ることによってあわよくば好きにさせようなどという魂胆があるのかもしれないが。
手相とか凝りとか言われたら、身も蓋もなく「いやです!」と言うことすら封じられているも同然なので、女性はいやいやされるはめになる。これをするとかなーり確実に嫌われるか、せいぜいのところしょうがないな、とあわれみの心で許してもらえるだけなので、した側の男性にとって得になることはまったくないと言ってよい。
もっとも、自分が本当に手相の専門家だったり、整体師だったりすればこの限りではない、念のため。

「ではいつ手を握ればいいの」などという疑問が浮かぶなら、好かれているという自信を持ってからしかるべきタイミングで単刀直入に行えばいいので、その確証を得るために女性を観察すればいいんじゃないかしら。
観察が間違って失敗、ということもままあるとは思うが、それは次の機会に生かしていくしかない。

でも女性から男性へのセクハラというのもあるのだろうなあ。知らずにしてないことを祈る。
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by zelan | 2010-01-29 00:09
2010年 01月 28日

2010年1月28日 きれいにしたい

以前ジョサイア・コンドル設計の岩崎邸にいったとき、色々なもののディテールに隙間なくレリーフや装飾が施されていることに驚愕した。たとえば椅子を見たら、なんというのか知らないが脚同士をつないでいる梁みたいのにすら、蔓草のような模様が細かく彫ってある。空間とか間とかいうものを仇のごとく嫌っている感じ。すべてを、確実に自分の意識の内に置いておきたいかのように。日本の美意識からは随分と遠い。

1月23日、バンタンデザイン研究所にて、ミヅマアートギャラリー三潴末雄氏と「ART iT」小崎編集長の対談~日本的アートとは?「ローカル/ナショナル」の可能性に出席。三潴氏が日本古来の神道的と言ってもよい美意識を整理して言及されていたのを伺っていたら、自分でも改めて感じたことがあって、つまり我々結局、キタナイことには、耐えられない。欧米の美意識が基本的に「醜」を含んだ懐の深いものであることに比較すればかなり偏狭。日本人がきれいにしたいのは、生理的にそうなんだから仕方がない。湿気があってカビやすいから逆にそうなったのもあるのかしらん。

日本の、この清浄さ、またそれを空間的に展開したかのような、垂直性・正面性・対称性等々に対する偏愛は、生活上の信条や創るものにも多大な影響を与えている。
この感性を先鋭化して、具体性のある表現を与えたら、富士山や着物の女やその他もろもろエキゾチシズムの方向性より、あるいは現代という変化する「現象」の描写より、たとえば西欧社会に対しては、センセーショナルなインパクトがありそう、と、しばし妄想に、ふける。
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by zelan | 2010-01-28 00:18
2010年 01月 27日

2010年1月27日 土壌

何か創っているとき、自分の意識と身体の状態というのはごく重要で、画面と同じ位の比率で注意を払っていないといけない。醒めているか、醒めすぎていないか、緊張していないか、「効率」のことを過度に重視していないか、疲れてないか等々。

感覚の言うことを聞いていくのも重要だが、そもそもその感覚が生じている土壌である自分の状態はどうか、ということ。
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by zelan | 2010-01-27 00:05
2010年 01月 26日

2010年1月26日 言ったことはやる男たち

あくまで私的な統計に基づき言うのだが、女性というのは結構、言ったことはやる人種。やらないことは言わないし、やるかやらないかわからないことは、やるかもしれないしやらないかもしれない、と言うか、あるいは何も言わない。
ところが男性は、言ったことをやらない場合が結構あるんですね。なら言わなければいいのに、と思うんだけど。仕事上の約束とかたいそうなことでも、そうでなくとも。一般的な男性/女性のイメージとは、もしかしたら逆かもしれないが。

だから、ビジネスにせよプライベートにせよ、言ったことはやる男たちは、尊敬の対象となるのである。
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by zelan | 2010-01-26 00:10
2010年 01月 25日

2010年1月25日 はじめの感じ

ラジニーシだったかベッドのことについて、最初の炎を保ち、最後の熾火を避けよ、と確か何かの著作で言っていたのだが、絵もそう。終わること、完成させることを目的とするのでなく、プロセスの中で、一瞬一瞬の新たな発見についていくこと。
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by zelan | 2010-01-25 00:08
2010年 01月 24日

2010年1月24日 とても難しい

絵を見て「わからない」という人には、「ただ、感じればいいのに」と残念に思う私ではあるが、セザンヌやゴッホは、美術史的な位置づけの重要性はともかくとして、比較的鑑賞が難しい絵ではないかと個人的には思う。
じゃがいもみたいにごつごつして、色面や運動方向性が細かく分断されているようで、からだの軸がぐらぐらする。好き嫌いと質とは根本的に別のことだが、それでも自分は冷たい感じのかちかちっとした垂直性の強いものが好きなので、嗜好の限界というものがありそう。自分の肉体の条件に、我々の感性も多かれ少なかれ縛られるということは、当然ある。

「セザンヌやゴッホってどこがいいのー」と言うと、絵を描く人には大抵の場合すごく軽蔑される。
とはいえ絵を前にするときは、その時々における自分のあらゆる条件がその瞬間の感覚や認識を生じせしめている。だから、誰のどのような作品に対しても、自分の感じ方自体には決して'Guilty'になる必要は、ないのだ。
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by zelan | 2010-01-24 00:10
2010年 01月 23日

2010年1月23日 欠落

すべてがみちみちにでばっている画面ほどつまらないものはなくて、必ずや何かが欠落していなければならない。でも油断するとつい、何か足りない気がするから埋めたい、という目線で素材を探していたりする。バランスは取ってはいけない、バランスというのはそれをむしろ不安定にして運動を起こさせるためにある。
欠落があるのでそこを埋めるという発想でうまくいくことは稀で、欠落している状態で生まれつつある魅力がないか十分注意して、それをより魅力的にする何かが見出されたときだけ(放っておくという選択肢は常に比較として忘れずに)、アクションを起こす。

全体を最初から決めておかないで、決めながらすすむという感じ、これもなかなかいい。皆、実際の処そうしているし、そうせざるを得ないし、そうし続けてきたのかもしれないけれど。伝統的絵画とかコラージュにおいてのみならず、普段、生活している中でも。
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by zelan | 2010-01-23 09:26
2010年 01月 22日

2010年1月22日 認識と成果

アレクサンダー・テクニークという、からだの合理的な使い方を学ぶ身体技法の教師から、印象深い話を聞いた。彼女の生徒にボクサーの人がいて、からだの感じなどについて質問してもほとんど言語化することはないのだが、とにかく少しワークすると素早く理解しどんどんすすむ、ということ。言葉で整理したり表現できたりすると、何かわかったような気になる。でも現実にそうとは限らない。

制作という行為、あるいは関与している技法について、思弁的にいかに認識を深めようとも、それで作品がよくなるとは限らない。重要なのは手を動かすこと、見ること、感じること、試すことである。

ボディ・チャンス (有限会社アレクサンダー・テクニーク・アソシエイツ)
http://www.alexandertechnique.co.jp/
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by zelan | 2010-01-22 08:23