原初のキス

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2009年 11月 30日

2009年11月30日 生け捕り

最初に現れた、あるがままの美しさこそ、ほんとうの美しさ。
美は一回性のものだから、そこでつかまえなければならない。
同じ美は、二度とふたたび、現れない。
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by zelan | 2009-11-30 00:03
2009年 11月 29日

2009年11月29日 びっくり

先日銀座のギャルリー ためながへ、40周年の名品展を見に伺った。
水の中の宝石のようなキスリング、どこまでもやさしく誰をも迎え入れてくれるルノアール、空中から魔法使いみたいに線を集めてきたようなクレーやカンディンスキー。技量の鍛錬とかとはまったく別の次元で、どうしてここまで正面突破で素朴に単純にできるのか、名作を見ていつも驚く。いい意味で心底よくやるなー、と思う。

徹底的な作為を経て無我・無作為の境地に至ったと修行好きの日本的感性からは思いたくもあるが、実のところどうなのかな。ねばならない、がない感じ。「自分」には全然興味がないのだが、その結果むしろばっちり「自分」がでている感じ。
こういう風にものを創るということは、自らに100万回言い聞かせても足りないくらい重要なことなのだが、つい忘れる。
だからいいものを見て、思い出すことができるのはほんとうに幸せなことだ。
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by zelan | 2009-11-29 00:03
2009年 11月 28日

2009年11月28日 根来(ねごろ)と、マカロン

先日25日は展示・イベント3連発。まずはホテル・オークラ脇の大倉集古館で「根来展」、東京オペラシティーで「ヴェルナー・パントン展」、フランス大使館旧館でアートイベント「No Man’s Land」のオープニングセレモニー。

今年の夏ごろ、白金のロンドン・ギャラリーという所に飛び込みではいったら一見してただものではないオーラを放つ漆器が並んでいて、それが根来だった(同ギャラリーは本展を協賛)。根来は中世に紀州・根来寺で生産された漆器に由来とある。朱が塗られたものは使っているうちに自然と地の黒が出てきて、作為を離れた美がシステムとしてとりこまれている。厚からず薄からず、剛にも柔にもよらず、シンプルな造形と脚部などの繊細な細工の対象が清冽に美しい。ものに人格ならぬ物格が宿っている。根来見ちゃうと外に出たとき対比からか色んなものがすごく粗雑に見えてしまうほど。

ヴェルナー・パントンはデンマーク生まれの有名なインテリア・空間デザイナーで、60~70年代のサイケな家具、室内空間がおもしろい。しかし彼が構想した、猫みたいに縦に生きる、家具の可動性、モジュール化されたシステム家具みたいなものは、人間の生理と多少反するのか、今の処さほど普段の生活に定着してないな。あと、晩年の自宅の写真が最後の方にあったのだが、結構フツーだった。 確かソファとコーヒーテーブルは嫌いと書いてあったけど、まさにそこに座って奥様らしき方と優しそうな顔でにっこり。

夜、取り壊し予定のフランス大使館旧館でのアート・イベント、No Man’s Landへ。絵画、写真、インスタレーション、音楽、ファッション等多数展示されており、来場者は恐らく1000人くらい、ものすごく盛況である。ファッションの展示は説得力のある作品が多い。ヴィジュアル・アートは・・・「意匠」や「アイデア」中心では少々つらいなーというものも散見。人が創っても自分が創っても、イメージ自体として強度のあるものを求めたい。
オーストラリア出身のBenjamin Skepperの、チェロとチェンバロの演奏は秀逸だった。ミニマルとゴシック、ミステリアスとポジティブ、一方向に行かないところがいいですね、と彼に言うと、「それが目的だから」ということ。世話になっている美術家の方にも言われ続けているが、ほんと芸術って絶対に一方向に行くことじゃない(逆に考えられている向きが多いかもだが)。典雅なチェンバロにはラテン語で、Veritas liberabit vos. (真理はあなたがたを解放する) と書かれていた。

デザートにマカロンを食す。甘いものがそれほど好きでもない私としては、マカロンと言えば丸くてかさかさして色んな色をしてるだけのなんか今ひとつ存在理由のわからない菓子だったのだが、ふるまわれたそれはねちねちしてガワと中身が一体化し、食べると自分ともみっちりと一体化してくれる異常に美味な菓子であった。私がこれまで食べていたそれは「うそマカロン」だったのだ。一緒に行った知人もマカロンはマジパン、ババロアに並び最も好まぬ菓子のひとつだったそうだが、7コくらい食べていた。我々においておいしいマカロンはものすごくおいしいという概念が確立され、おそらくそれはもう一生揺るがない。
シャンパン、ワイン、食事もすべて一分の隙もなく美味。フランス恐るべし。

根来展 (大倉集古館)
http://www.hotelokura.co.jp/tokyo/shukokan/negoro.html

ヴェルナー・パントン展 (東京オペラシティアートギャラリー)
http://www.operacity.jp/ag/

No Man’s Land 創造と破壊@フランス大使館
http://www.ambafrance-jp.org/nomansland/

Benjamin Skepperのサイト
http://www.myspace.com/benshaman
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by zelan | 2009-11-28 01:09
2009年 11月 27日

2009年11月27日 少々の不満

「人間としては尊敬していますが、男性としては特に興味はありません。」
と言ったり、態度で示したりすると(別に先方がこちらに惚れているとか、そういうのでなくとも)、男性にとっては結構不愉快なようで、たいていの場合気がつくと目の前からいなくなっており、よって人間としての関係もそこでおしまい、となる。
これまでそういうケースは、数十をくだらない。おしまいにならない懐の深い人は、10人に1人くらいかな。他の女性に聞いても、こういうケースはとても多く、よく愚痴の言い合いになる。

誠につまらん。
私は男性というものを総体としては大変尊敬しているのだが、この点に関してのみ、もう少々進歩したらよかろう、と思う。
女性って男性と比較すれば、男性を男であると同時に人間として見ているような気がする。

あ、逆に、こちらが女性として興味を持たれないので人間関係が終わる、というパターンもあるかな。でもこれは同じ事象の逆バージョン。
自分はと言えば、人間としては尊敬していますが、女性としては興味ありません、と言われたことはない。正確には後半は数回あるが、前半がない。言われたら後半については、あ、そう、と思い、前半については悦にいることにする。
いずれにしても、人と人の関係は男女関係だけではない。関係の多様性というものがあるのだから、多様な関係を結べばいいだけだ、と、思うのだけど。

というような意見を表明すると、責められたと思うのかまたぞろ男性はぎょっとした顔をして口数が少なくなるのである。
こちらからは想像もできないくらい、繊細な存在なんですね。
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by zelan | 2009-11-27 08:57
2009年 11月 26日

2009年11月26日 問題と課題

先日、さる高名な工学博士の方と話をしていて、「問題と課題はどう違うか。この2つを定義せよ。」と言われた。
「えーと、問題は困っていること、課題はその困っていることを解決するための・・・」ともたもたしていると、「問題は望ましくないこと、課題は望ましいこと」とのこと。
だから、問題は解決するものだが、課題は達成するもので、かつ、問題より課題が常に先にあるとか。なぜなら、達成したい課題があるから、それとのギャップが「問題」と認識されるからである。

我々つい困っていることばかりに目を奪われ、そもそもなぜそれに困っているのかまで頭がまわらないことは結構ある。
困るのは達成したい何かがあるからで、困っていることを解決しようとするときは、まず課題が何かを把握できれば一番いい。そうすれば構えはポジティブだし、問題の解決策の幅が広がる。
針に糸を通すのが難しいという問題は、布を縫うという課題においては、たとえば先の方だけ糸を硬くする速乾性の化学薬品か何かがあれば、針なしで布を縫えるという、例えばそのような。(この問題を出された私の答えは、穴の大きい太い針を作って目の粗い布を縫う、というもの。力技だが一応縫えるんで、あながち間違いでもない。)
解けない問題は多くの場合、課題設定が間違っている。

さて、自分の悩みは、頭の切り替えがヘタで、制作以外の諸事(当然たくさんある)に制作の時間を分断され、制作を再開するたびに離陸までの時間をロスることである。
どうすりゃいいんですか、と彼に聞いた。「僕も切り替えはあまり得意じゃないから諸事全部先に片付けてそれからクリエイティブなことやるけどね」、その結果クリエイティブなことを始めるのは夜中だったり。それじゃ美容その他の観点から、私の場合少々困る。

しかしこの問題、またその上位概念の課題も、まだ明確に記述できてないな。ということで、これは宿題。

このブログは結構ナンカイである、と言われることが多いのだが、またナンカイなことを書いてしまった。大体においてあたり前のことを書けば書くほど、むしろ難しく見えるのである。
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by zelan | 2009-11-26 10:14
2009年 11月 25日

2009年11月25日 よく見ない、考えない

「頭のすみにおいておく」、というのは明らかに一種の技術である。それでうまくいくことがたくさんある。
例えば作品のテーマ。「テーマとは、そこに向かっていくものではなく、そこから出発し、追い風としていくものだ」、という美術家北川健次氏の言葉を前に引用したが、テーマって、向き合ってしまうと、表現の幅をどんどん狭くする方向にしかいかない。「クリスマス」について正面きって考えると、緑とか赤とか、サンタクロースしか見えてこないように。クリスマスの絵を創ろうと思ったら、直接は関係のない素材をいじりながら、クリスマスのことを少しだけ忘れないでいる程度がいい。そうすると、ステレオタイプでないクリスマスが、現れてくるのを邪魔しないでいられる。

「見渡せば花ももみじもなかりけり」と聞けば、そこにない花やもみじのイメージが眼前に展開するように、見ようとすれば隠れ、見まいあるいは見えないと思うと現れるのがイメージの性質だ。向かうと離れ、そっと横にどけておくとなまなましくほんとうの姿を現わす。このことをいやがるのではなくて、喜んで一緒にいる、その感覚をつかみたい。
皆絵って特に創るときは、穴のあくほど見て、深く考えるのが重要だと思っている。そういう場面も確かにあるけれど、それだけがすべてではない。軽いかまえで、ちょっと横目で見るような感じ、それがよい結果をもたらすことも多い、というか、少なくとも自分の場合、調子のいいときはほとんどそればかり。
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by zelan | 2009-11-25 01:01
2009年 11月 24日

2009年11月24日 東京コンテンポラリーアートフェア2009

昨日は新橋の東京美術倶楽部で開催されていた東京コンテンポラリーアートフェア2009 (TCAF) 最終日へ。
作品は繊細、神経症的で、技量高く、描かれているのは人間、その感情、身体、針の穴から覗いて拡大したような感覚などがかなり。比較的若い作家層が多いからか。絵画としての質の良しあしとは別に、弱々しくて、こちらからエネルギーの持ち出しがある感じのものが、少なからず、ある。

東邦アートのブースで日本画家千々岩 修氏の抽象作品を見た。とてもいい。
岩絵の具(だと思う)は懐が深くて、ぎらぎら反射せず、見ていると自分と溶け合って、意識とからだを清明にする。人事より大きい、自然と原理的なものの世界で、エネルギー回復。
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by zelan | 2009-11-24 09:13
2009年 11月 23日

2009年11月23日 アンチ・ハリウッドの悪夢~映画「脳内ニューヨーク」

渋谷 シネマライズでチャーリー・カウフマン監督「脳内ニューヨーク」を見る。
監督は「マルコヴィチの穴」などの脚本家。

空に浮かぶ人のよさそうなおじさんの頭の上にニューヨークの街が王冠のようにのっかっているポスターを見て、てっきりコメディだと思っていた私は、冒頭からさえない風貌の劇作家の主人公(アカデミー賞主演男優賞受賞の名優フィリップ・シーモア・ホフマン)が色んな病気を患ったり、奥さんが娘を連れて出奔したりのクラいエピソードに辟易しつつ、これがいつ逆転して「脳内」だろうがなんだろうがおもしろおかしくなるのか、と期待しながら見ていた。
ところがおもしろくなるどころか話はそれからもどんどん悲惨になり、生老病死の奔流で七転八倒の主人公は、受賞で得た大金を元手に巨大セットと大量の役者を使って自分自身の人生を再構成しようとするが・・・。

脚本も演技も実に素晴らしい。一方、何の救いもカタルシスもない。
一緒に見た知人が、「ハリウッド映画の真逆」と言っていた。

仏教では人生が苦であることは真理とされている。しかしその原因である欲や無知の構造を正しく理解して苦の超越を目指すことをも説いている。
この映画は前半の真理を見事に描ききっているが、後半についてはゼロ。
日本人だから、ちょっとだけ仏教を知っていて、よかったなー。
いずれにせよ、こういう映画を創れるのは精神的にすごいマッチョな方々であることは間違いない。
繊細と言えば聞こえはいいが、くまのプーさんのピグレットに毛が生えた程度に精神力にへなちょこの気味のある自分としては、「見るだけでもたいへん映画」今年のナンバー1を授賞する。

「脳内ニューヨーク」
http://no-ny.asmik-ace.co.jp/index.html
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by zelan | 2009-11-23 00:04
2009年 11月 22日

2009年11月22日 鑑賞

それは動いているか、震えているか、無音か、触ると手が切れそうに
鋭いか、制作者のものではない独自の生命力を持っているか。

美術の作品を観るときは、これらが気になる。
自分が創ったか、人の制作物であるかは、関係がない。
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by zelan | 2009-11-22 02:00
2009年 11月 21日

2009年11月21日 レベッカ・ホルン展 東京都現代美術館

知人のひとりがこの展示を「つまらない」と言っていたのだが、私自身はとてもおもしろかった。それでも色々と思うところあり、つまらないと感じる向きがあるのもわからないではない。

まず思っていたよりジミだな、というのも一つ。動く作品が多いが、今の日本の時間感覚からいうと、なっかなか動かない。例えば、天井から吊られた有名なピアノの作品は、鍵盤が出るところは見たけれど、しまわれるところはしばらく待っていたもののしびれを切らし部屋を出てしまった。
実は私は彼女のインタビュービデオを何十回も見る程、彼女の作品には興味を持っている。ビデオではクライマックスの所が中心になっているので、ものすごくインパクトが強く感じるが、実際その場にいるとかなり淡々として自然な感じ。映像作品は当然どんどん動くのでまた違う印象があるけど、インスタレーション・立体作品については作品に流れている本質的な時間を今の日本に生きる自分とチューニングするのが生理的に少々難しい感じでは、ある。

もう一つ、少なくとも今回展示されている作品は、外形的にもコンセプチュアルにも、あまり多様なことはやっていないということだ。さまざまな試みのあるゲルハルト・リヒターなんかとは印象がだいぶ違う。機械に仮託された生命というか、機械という強固な物質性(と見えるもの)と生命のはかなさが意識の中でシンクロするような奇妙な象徴性。
ただ、時間感覚も、多様なことをやらないでシンプルな立ち位置に居続けることも、彼女自身の中に深く根づいたものからきているのを直感的に感じる訳で、その真摯さがすごい強度をかもしだしている。さらにその結果表出されているイメージが確実に世界の真理につながっていることも。だから、結論としてはやはり大変におもしろかったのである。

さて、女性の創るものは多少なりフェミニズムというか、ジェンダー・アートの趣を帯びるのはどうしてだろう。キキ・スミスやルイーズ・ブルジョワなどもしかり。並べて書くのもおこがましいが自分の創るものもしかり。
思うに女性とはつくづく、自分という現実からは離陸しづらいが、その離陸しづらさをもって逆に世の真実をあらわにする、ということもあるのだなあ。女性は古今東西延々と縛られていて、それは必ずしも社会や政治システムによってではなく、一種の自縄自縛なのではないか、論理的にはうまく説明できないけれど、彼女の作品を見ていて、まざまざと、そう感じた。

レベッカ・ホルン展 東京都現代美術館
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/107/
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by zelan | 2009-11-21 00:04