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原初のキス

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カテゴリ:展示レビュー( 9 )


2019年 04月 05日

「感想」を確認に~「岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟」@東京都庭園美術館

1950年代に集中的に制作したコラージュ作家、岡上淑子の展示に東京都庭園美術館へ。
実は二回目。さすがに同じ展示を二度見に行くのは稀だが、とても楽しみにしていた展示だったにも関わらずどういう訳か最初に見た時に「はっきりした感想」が思い浮かばず、なんだかもやもやしていたからである。

理由を考えながら見ていくと、ある程度はわかった。

1.コラージュのモチーフとして結構細かい物品が多く、目と脳が泳ぐ。
画面は小さいが具象物の情報量が多いため、頭の処理に対しオーバーフローした。
2.結局のところコラージュというのは「いわくいいがたし」が志向され組み立てられているのであって、「イメージ」としてはばっちりしっかりの強度があっても、言葉にしづらい。
(分析的に見るなら、時代背景とかフェミニズム的な視点とか言葉や思考でひもとく手がかりはありそうだが、そうした言説はちゃんと書いてあったので自分ではあまり改めて考えたり感じたりしなかった・・。)

途中でエルンストの素晴らしいコラージュ・ロマンのコーナーなんかもあって全体としていい展示だ。
1回目に一緒に行った、諸展示に安々とは高いお点を付けない知人も「おもしろい!」とご満悦だったし。

それにしてもコラージュという技法(の本質を用いた優れた作品)がいかに激しく「統合的なもの」であるかを改めて認識する。
コラージュにも様々な情緒や構想があるし、必ずしも全てとは言えないが、個々の素材間は限りなく遠く離して、最終的に一つの画面に展開するときには人の脳の統合作用を刺激してイメージを絵空事でなくむしろリアルにする。
言葉で言える範囲のためとても雑駁な例だが敢えてあげると、タキシードきた七面鳥みたいなえせ紳士って、いますよね・・。離してからくっつける、この移動距離が大きければ大きい程おもしろい。

コラージュは、分裂的で、超現実的なものと思われているかもしれないが実は真逆。
様々な芸術技法の中でもことさら、脳において賦活させる機能という点からは統合的であり、そのイメージはむしろいかに現実的であるかを競うているのだ。

4月7日まで。



by zelan | 2019-04-05 11:29 | 展示レビュー
2019年 04月 02日

これ俳句 ~ 内藤京平「luna o lunar」@Bambinart Gallery

3月に開催されていて既に終わってしまった展示ではあるが、アーツ千代田3331のBambinart Galleryで内藤京平氏の個展を見た。

古典絵画からのモチーフと線とドットで構成されていて、基本それ以外の要素を含まずミニマルにまとめられている。余白が非常に大きい作品もあって自分は氏の「抑制力」に感心した。自分なら余計なサービス精神を余計さが出ないように四苦八苦しつつそれでも余計にやってしまう可能性がある。

さてミニマルとは言ったが絵画は要素が多かろうが少なかろうが適確な情報密度が必要で、情報密度とは即ち脳及び視覚を始めとする身体感覚への刺激であろう。そしてどこにその刺激を感じるかということは個人差があるかもしれない。自分の場合は具象モチーフ部分がどのように作成されているのかしげしげと見つめてもよく分からないことにいたく興奮した。描画材で描写したようには見えないのだが、印刷物を貼った感じでもなく表面に蜜蝋状のくすみ・・・もしくはメディウムを混ぜた絵の具とかもしれないが・・が施されている部分があってそれが背景とのなじみをよくするとともにモチーフ部分のマチエールに深さを与えている。もしかしたらタトゥーシール的なものも利用されているのかとも思ったが、例によってどこかに書いてあるかもしれないけどそれを調べないで想像することに喜びを見出す自分には、何が正解なのかわかんないのであった。

要素極小にして深く楽しめる、俳句みたい。

展示概要


by zelan | 2019-04-02 11:22 | 展示レビュー
2019年 03月 31日

ああいう大人になってもよい・・画廊劇『焚書都市譚(三月版)』@LOKO GALLERY

展示やイベントというものは、実際に行くまで自分がどういう感想を持つかは決してわからない(「ルノワールなんだから絶対感動しなくっちゃだわ」、とか最初から決めて行く場合を除く)。
そして大抵の場合、それらは良かれ悪しかれ我々の人生を多少なりとも変える。日常的ではない集中力でもって作成された物品とか時間なのだから、人間の脳はそれらの濃い刺激を浴びて心身に何らかの影響をデリバリーし、それがドミノ倒し的に次々と微細な変化を人生に及ぼしていくはずだ。

即ち、感想も影響もはっきりわからないものの、毎日ただ同じことを繰り返すのではなくてそういう場に行くならば、いいことの(も)起こる可能性を広げることになる。
これらに足を運ぶ人々はだから、好機の狩人なのである。

と、いうことで昨日LOKO GALLERYで開催された画廊劇『焚書都市譚』に行った。
演劇・美術・音楽の複合的なパフォーマンスの中で観客は自らも一部の展開に加わりながらギャラリー内を移動する(正確には後述の「仕切り」によって移動させられる)。個人的に特に気に入ったのは原作者であり主たる演者でもある古川日出男氏の役割なのか実像なのかの虚実入り組んだ演技、というか自分には「仕切り」という言葉が浮かぶ、であった。「生まれ変わったらああいうタイプになるのもいいなあ・・」と見ている最中に思った。異論は(かなり)あるかもしれないが自分はおとなしい方で、あんな風になれたら違う世界がひらけて面白いかもしれない、と思ったのである。

そして翌日であるところの今日、昔北陸の地方都市でバリバリの文学少女だった頃に書いた長大な詩の所々をなぜか克明に思い出し、それを再び書き起こす、という所業に出た。始めはなぜ突然こんなことをしているのか訳がわからなかったが、昨日芝居を見たせいであることに追って確信を持って気がついた。恐らく、当方の常々主張する脳の「クッキング」機能のせいで、元々大好きだったくせに今や大嫌いになっていた自分の「言葉」というものに対する不信が好意方面へと、少々移動したのである。

思ってもなかった仕切りをしたいという欲望を見いだしたり、言葉に好意を取り戻したりと、これらはごく個人的な体験であって、全然イベント自体のレビューの体は成していないが、行ってトクした。
ことほど左様にそれぞれに行ってみなければまるっきりわからない影響が期待できそうな、高熱量・好イベント。

4/21にも開催されますが、現在キャンセル待ちのようです。


by zelan | 2019-03-31 22:34 | 展示レビュー
2019年 03月 27日

絵具の絵 ~ 杉田陽平「マテリアル・ワールド」

絵具というものは非常に美しいものである。

油絵具であれアクリル絵具であれ自分がそれを見るとき直接的に想起するのは、大げさではなく一種の「純粋性」とか「光源」とかいうものであって、ゲル状であることを除けば宝石と同じ位美しいものだと思っている。
そうしてまた、何も描かれていないカンヴァスも美しい。木枠にパリッと張られた描かれる前のカンヴァスは、少なからぬ場合絵が載った後よりも美しい。紙も同様であって、500枚550円なりのコピー用紙だってじっくり見れば陶然とする位すがすがしくきれいで、手漉きの和紙や高級版画紙等々の美しさたるや、「もうこのままでもいいや・・」と思ってしまうほどだ。

何が言いたかったかというと、物品としての絵なるものを描くことは特段難しくはないとしても、良い絵を描くことは結局そんなに容易ではない、ということ。
上述のようなゴージャスなものを使用するにあたり、超絶豪華な衣装を着たしょぼい人、とか、ベルリンフィルとリストのピアノコンチェルトの楽譜を前に、ピアノの先生のヒステリーが怖くて中二で音大に行くのをあきらめた(個人的実話)人が途方に暮れるの図になるかもしれない。もちろん、ゴージャス陣は元々は我々を助けてくれるために存在するのだが。

前置きが長かったが、国内最大のオンラインアートギャラリー タグボートさんが有楽町阪急メンズ7Fで開設したリアルギャラリースペースのこけら落とし展示、杉田陽平氏の「マテリアル・ワールド」に行った。
アクリル絵具の皮膜化などで知られる氏だが、色鉛筆で「絵具のありさま」の描いた小品の連作が個人的には好きであった。
美しい紙の上に美しい顔料を包含する色鉛筆で、テレっとした絵具自体のありさまが緻密に描写されていて、その絵具も当時輝いていたのだろうけどその姿が時を経て今目の前の描画材に含まれる顔料自体の輝きで目を射るのである。

ここにないのにここにある、それは、絵具というものを、絵具もそうであるところの描画材で描いたからで、かつ支持体(紙)も描画材もモチーフ(絵具)も相互にしっかり互して美しく調和しているために、そのトートロジー的構造が恐らく、人や花や景色を絵具で描くのとはちょっと違う「トリップ感」を醸し出していた。

リヒターやリキテンスタインにも絵具や筆触をモチーフとしたものがある。個々の制作の企図は異なるものの、これは一つのニッチなジャンルである。

開催中 4月18日まで。



by zelan | 2019-03-27 21:54 | 展示レビュー
2019年 03月 23日

マチエール採集の収穫 ~ FACE展 2019

これだけ種々様々なイメージが世界中に氾濫し、特にネットの普及によって容易に手に入る今、なぜ実際の展示に足を運ぶかといえば自分の場合それはマチエールを見に行くという目的がかなり大きい。
マチエールを見れば則ちプロセスが類推できることも多く、参考になったりするのではというはっきりした下心がある。マチエールばかりはモニターで見ていても正確には分からない。なぜならそのイメージは必ずやモニターの表面の素材のマチエールになっちゃってるのだ。その素材の奥から光が照らしているという、これが結局は我々がネットから見る全てのイメージの表面ということになる。

前置きは長かったがVOCAよりは更にこれぞ平面という形の作品の有名コンペ、FACE展 2019(損保ジャパン日本興亜美術賞展)に行った。グランプリの庄司朝美氏の作品の前に進んだ私はおお!と思った。思いもかけず作品がアクリル板にマウントしてあったから(いやガラス絵みたいに裏から描いてるのかも・・)。ネットやポスターでさくっと見ていた時は、書いてあったかもしれないけど気づかず、前に立って初めてその強力にてらてらっとした表面・・普通の意味でのマチエールとちょっと違うがいずれにせよマチエールだ~それがまた中央で上下2枚を継いである、に気づき、そしてその奥から強度のあるイメージが表のアクリル板といい具合に互してこちらに迫ってくるのを愉快だと感じたのであった。

イメージ自体も面白い。大抵の絵画は空間的時間的に、それとつながってどこかしらに存在する全体における部分であると自分は思っているが、そうしてまた特に具象絵画においては、「これの外、あるいはこの前後の時間どうなってるんだ・・」と思わせるものが個人的には好きなんだけれどもそういう意味でもこの作は面白かった。

作者の方には多分何か想定している物語はあったかとは思う、そして今ネットで調べたらそれに対する言及がある可能性もある。でも自分は調べないのである。
先日あるカンファレンスの懇親会で初対面の男性と話していて、たまたま自分が「何か疑問に思った時ネットで調べると結構すぐ答えが出ちゃってつまらないのであえて調べないんですよ」と言ったら彼が、「あ、それ最近流行ってるんですよね!」と返してくれた。そっか流行ってるのか・・・それはなかなか喜ばしいことのように思う。というわけで今回もその戦略を取ることにした。自分で想像する方が楽しい。

3月末までです。



by zelan | 2019-03-23 15:12 | 展示レビュー
2019年 03月 22日

VOCA展2019で震え上がるの巻

上野の森美術館のVOCA展2019へ。
感想を述べたいが「かんそう」になりそう。作家さんが33名もいるので感覚的にせよ総括してまともな感想など言えない。
があえて総括するとあまり明るい感じはしなかった。明るくなくて勿論いいし質とは関係ないし、全員が自分の勝手な定義で明るくなかった訳でもない。大体理由もうまく説明できないのだ。(ちなみに翌日同様に平面の著名コンペFACE展2019に行き、こちらはあまりそういう印象はなかったな・・。)

この印象とも関わるがある事件があった。
他と軽く区切られた展示空間にあった作品に近づいていった際、それが人の死体様のものを描写してあると見て取り、生来そういうイメージに耐性の低い自分ははっきり見る前に撤退したのだが、「あれって現実からの描写?それとも創作?」ということがどうしても気になってわざわざ作品の側に戻り、絵を極力見ないようにしつつキャプションの解説だけ読むという生まれて初めての行動を取った。すると、「現実か創作か」みたいなことが書かれていて微妙に安堵し・・・しかしまさにその術中に落ちた、ということを経験したのである。

美術は感覚に対し多かれ少なかれ侵襲的なものなのであることは認める(全く日常の感覚になじんぢゃったら、そもそも作品の意味ないよ・・)。そして件の作家さんはそうしたテーマを追求しておらるるのだが、事前に美術館サイドが警告を貼って注意喚起をして頂きたかった。
好きで足を運んだ会場だが不意打ちで見たくないものを見るかもしれないというそこまで了解していない。昔ある著名なコマーシャル・ギャラリーでも同様の刺激的図像が並んでいて、目の焦点が完全に合う前に逃げ帰ったことも思い出す。その種の作品については、見る見ないの選択肢が与えられずに不意打ちはいかにもきついのである。(ところで自分は会田誠さんの一部の過激な作品のイメージに対しては一度も震え上がったり嫌悪を催したことはない。考えてみたらそれはそこにある作品としてのフィクション性の質とその感受が、自分の神経を守ってくれているのだ。)

と、いう中で私が極私的オーディエンス賞を授与させて頂くのは田中真吾氏の焼いたベニヤ板と角材を組み合わせた大きな作品だ。板を端から焼いた黒と地色の明度のムラが、五木田智央さんの絵のようである。スカっとしてて、よかった。うれしくなった自分は、側に近づいていって匂いも嗅いでみたが、予想した程焦げたにおいはせずかすかに感じるだけだった。事前に干して?おいたか消臭剤様のものをバンバンかけたのかしらん・・。
同展には、絵画に寄った写真、写真に寄った絵画、なども多かったが、これは絵画をほんの少し擬態した彫刻というべきか、ていうかつまりは立体作品だ(笑)。

そう、「平面の作家たち」の登竜門であるVOCA展では高さ20センチ以下は平面と見なす、ってことになってるんだ!それより、「平面なるもの」を作家・推薦者サイドが定義せよという方向もある気がするがどうして20センチなんだろう?その20センチの元は何が参照されてるのか?これとか、40歳という微妙な年齢で出展者の条件がある点など(勃興する20代とかならまだハッキリする感じだけど。40歳すぎたらゼツボー的と言ってるみたいな)、それらの点が個人的には脳への刺激としてとても面白いと思い、暗かった気持ちがちょっと明るくなったのであった。

本展示は3月末までです。




by zelan | 2019-03-22 21:03 | 展示レビュー
2019年 03月 17日

最近のコレクション

その作家は非常に力がある人で自分は美しい展示場所で100号ぐらいの絵がばんばん展示されているのをずっと見ていった。
気に入ったのは見かけが固定化しておらず非常に多様なこと(抽象である)。マイクロコンセプトとか技を狭く先鋭化するのもいいが、作家の一貫性を提示しつつ、これ位物理的に同じような見かけや色彩にこだわらない作家は珍しく感じる。最後に数点小品があって、その中にも大作で確認したエネルギーの反射を十分感じたので購入。自分の資力と住居環境ではさすがにジャンプしかねるが、大作も比較的リーズナブルであると思われる。

この作家は門田光雅氏。展示場所は先般もアートフェアをやっていたパークホテル東京(汐留)で、記事が遅ればせになり門田氏の展示は終了済だが内容等詳細はこちら。
https://www.parkhoteltokyo.com/artcolours/vol27.html

もう一つの点として、美術作品を見る場所としてのこのホテルは秀逸だ。アートのプロジェクトも継続して行われている。
ホワイトキューブもいいがマホガニー色やグレーのしっとりとした空間で廊下のガラス貼りの展示スペースの奥にある近づきがたい良品を見ていると、こうした場所もギャラリー同様まさに絵画を見る場所だ、と感じるのである。


by zelan | 2019-03-17 10:06 | 展示レビュー
2019年 01月 24日

「作り方がわからない」は「情報」である ~ omnis「EVOLVING」展@渋谷ヒカリエ

作品には作品として、更には良い作品として成立する情報密度とでもいうものがあるように思う。ある大きさや形態の作品において受け取る情報の総量が「みっちみち」でも「すっかすか」でもあまり面白くないのであって、これは作品の構想にも関連する上に感覚的なものなので言葉としてうまく説明できないが、とにかく情報密度ってものはある。それが不適切だと、なんだか関心が継続できない。我々の誰もが、多かれ少なかれそんな風に芸術作品を見て体験しているのではないか。

絵を見る時の自分の主たる関心事はこの情報密度と、それから「どういうプロセスで作られているのか」という2点である。後者については、わかったり想像ができれば参考になるし、全然わからなければそれはそれで刺激的なのであって、プロセスを考えることはいずれにせよ鑑賞の大きな喜びなのだ。

そういえば「作り方がわからない」というナゾも立派に情報密度の一部を成す。
情報は脳への刺激であって、ナゾという刺激は鑑賞者を絵の前に滞留させる。そして作品が観る者にとって良いと認識されているか否かは実はこの滞留時間で測れる(かもしれない)。

前置きが長くなったが渋谷ヒカリエCUBE 1, 2, 3で開催されているomnis「EVOLVING」展。
入り口の正面に展示されており、メインビジュアルにもなっている金子透氏の作品の制作プロセスは自分にはわからない(仮説がゼロではないが恐らくハデに外すのでここでは述べない。いわゆる絵画技法のみというより他の技術技法領域も参照されているような気がする。あるいは絵画技法を「還元・強化」しているかもしれない)。

面白いと思ったのは、これを見ているとなんとなく時間感覚みたいなものが刺激及びいい意味で混乱させられるのだが、それはこの作品のイメージから来ると共に制作プロセスやその所用時間がよくわからないということから来ているように感じる。もしかしたらものすごく時間がかかっているかもしれないし、大画面だが比較的短期間かもしれない。・・・前者かな、とすればこの霧か砂か雲か、飛ぶ鳥のようなものが漂わせる瞬間的な無常感を、堅牢/構築的で手の込んだ制作プロセスが支えており、見かけとプロセスの距離が我々が感じる情報密度の一部を成しているのかもしれない(と、妄想は膨らむ)。

omnisは現代美術家金子透氏率いる芸術家集団。展示の他の作も上品な精神性を感じるものが多い、清冽なる好展示。

イメージの解体 リアリティへの挑戦

1月30日まで。 





by zelan | 2019-01-24 22:06 | 展示レビュー
2019年 01月 18日

実存ってなんだっけ・・Michaël Borremans | Mark Manders ギャラリー小柳

ミヒャエル・ボレマンス(絵画・ベルギー)とマーク・マンダース(彫刻・オランダ)といえば、自分の中では現代美術の大スターと言っていい人々なのだが、この二人揃い踏みの展示が銀座のギャラリー小柳で開催されている。

「奇をてらう」という言葉があるが、全身タイツ様のものを着て薄暗く何もない場所にえらく不安定な感じで佇む人とか、サボテンかあるいはヘンな果物のように見えるが同時に人の頭にもしっかり見えるナゾの物体とか、少女っぽい頭2個の鼻から上がなくて口元が笑ってるとかが全然そうは見えないのは、これらのイメージがえらく「リアル」だから。作家は人のこういう状況を骨の髄まで納得した上で、それを物質上(絵画や彫刻)に完全に、クールにレンダリングしていると思われる。

こういうイメージをある意味「盛り」で豊かに饒舌にぐっちゃぐちゃに描ききるというのもありうべき表現形態の一つかもしれないが、彼らの選んだこの冷たく、暗く、醒めた感じが好ましい。その方が悲惨さが際だつ。

実存てなんだっけ?と、高校のXXの授業(何科の授業だったかすら、今となっては忘れた・・)以来久々その定義を思い出したくなった展示。

1月24日まで。

Michaël Borremans | Mark Manders



by zelan | 2019-01-18 20:48 | 展示レビュー