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原初のキス

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カテゴリ:展示レビュー( 17 )


2019年 06月 22日

戦略と機嫌~ユアサエボシ「曲馬考」@銀座 蔦屋書店

ユアサエボシ氏の「曲馬考」。Ginza Sixの蔦屋でやっていて見に行き、画力は素晴らしいし構想もプレゼンもコンテンポラリーの戦略的な視点からは満点な感じ(って自分が偉そうに言っていいかはわからないが)であって、視覚的にも脳的にも大変に面白かったので自分は喜んだ。

ところが、一緒に行った知人の機嫌が悪くなってしまったのだ。
過去に生きた架空の画家の描いた絵、というしつらえなのだが、十分に過去ではない、過去の人では描けるはずのないものを描いている、と、言うのである。言ってることとやってることが違うのは許せん!と言われ、ちょっとマッチョに聞こえるけど筋が通っているとも思われる意見で(ちなみにこの知人は美術方面にはかなりのリテラシーがある人だ)、一方「なんか違う・・いや、かなり違うのでは」とも思ったが、しかし反論する体力も気力もそしてそこまでの動機もなく寂しく佇んでしまったのであった。

何を言いたかったのかわからなくなりそうなのであえてまとめると、

  • 多くの人、特にコンテンポラリーが好きな人々にはかなり刺激的で素晴らしい展示と思うので、見に行かれるとよいのではないか、というお勧め 

そして、

  • 「鑑賞」とはいつまでもどこまでも自由なもので、それぞれの人の立場を貫いて意見を吐露するのはよいと思う、

と、いうことである。

銀座 蔦屋書店 アートウォールギャラリー
7月12日まで。






by zelan | 2019-06-22 21:22 | 展示レビュー
2019年 06月 15日

Katrien De Blauwer @POST(恵比寿)

先頃恵比寿のPOSTへ、カトリアン・デ・ブラウワーのブックサイニングイベントに行き、こちらで紹介されている本を購入。 非常にセンスのいい、上品寡黙でありながらセクシーな作品群。

彼女の作品の中で自分なりに特にぐっときたのがこのサイトの中にある顔の上の方が木になったり窓になっている作品。

木や窓と髪や目との形態的類似は明らかで、通常はもっと人を食ったような感覚が生じそうなものだが、むしろ深い詩情を感じる。何というか、人間、人工物、自然それらは結局のところ存在として通底しているのではないか、と言った、かなりシリアスな感覚を覚えさせられるのであった。

7月21日(日)まで、POST内mini galleryにて小品が展示されている。








by zelan | 2019-06-15 19:12 | 展示レビュー
2019年 06月 11日

内気の威力 ~ ジョゼフ・コーネル展@DIC川村記念美術館

東京から遠いという理由で何となく後回しにしていたDIC川村記念美術館ジョゼフ・コーネル展を駆け込みで参観。実際に見てみると、初期のコラージュから彼のキラーコンテンツであるところのボックスアート、更には見る機会の至極少ない映像作品まで堪能できる充実の展示で、東京駅から1時間直通バスに揺られたかいがあったというもの。
特に、生涯ほぼニューヨークの中だけで過ごした彼の、行ったこともない国のエキゾチックなホテルの一室を模したり、鳥や蝶などが主役だったり天文のイメージが跋扈する、地理も種族も空間も超越した緻密でリアルな箱作品には、驚愕するしかない。

この展示では、彼の「内気な変人」と言う一般的なイメージに逆行する多彩な交友録~人からもらったり人に宛てた手紙など~も多数展示されているが、それでも結局の処非常に内向的な人間だったという印象がその作品から残る。いいではないか内気でも。内気のエネルギーだって宇宙まで飛ぶことができる。



by zelan | 2019-06-11 22:44 | 展示レビュー
2019年 05月 19日

プロセス探偵完敗すの巻 ~ 北山善夫展『事件』@MEM

展示に足を運ぶ大きな理由の一つに、制作プロセスについて想像し、刺激を受けるというのがあるが、本展オープニングに行って最初の作品を目にした自分は、その前で長時間凝固してしまった。

・・作り方が、全然、わからない。

それは例えばこのような作品なのだが、小さい点のようなものやその他の形態が密集して種々動勢の上を濃淡を含みながら、支持体のほぼ全面に配されている。更にどの作品を見ても、自分の全然わからないは継続するのであって、極めつけは少し区切られた奥のスペースに展示してあった、大量の泥人形のようなものが折り重なったり絡んだりと大変なことになっている作品だった。泥人形の集団を自分は見たことがないが、その像が異常に「精確」であることは何故かわかった。そこで連想したのは、「写真」である(ただしマチエールは全然違う)。全作に共通してそれらの相貌としては、一瞬または時間の超越(即ち永遠)を感じさせ、また明確に異界風なのに、なぜか恐ろしく現実的。

しばらく観察していた自分はしかし、プロセス全部が人力(じんりき)の訳ないよね、と一応のところ結論づけた。なぜなら、人が手だけでやるものとしては単位面積あたりの情報のビット数があまりに巨大で、これが達成できるのは自然による「現象」か、あるいは疲れを知らぬ装置などがまさに機械的に生成するこれもまた別種の「現象」だけであろうと感じたからである。
デジタルと人力の複合技法かとも思った。特殊なメディウムも用いて転写とかはじきとかが活用されているかもしれないし、イメージの形態とか質感自身にもデジタルを感じさせるところがある(恐らく均質・精緻とか精確性といった印象の側面で)。キャプションを見たらインクとあって、出力を一部用いていたってインクはインクだ、と自分を納得させるが、どうも感覚的に腑に落ちない。で、実際は全て北山氏の手によってのみ作られていたのである。

通常、案内のイメージだけ見て展示に向かい、展示が気に入れば解説を後で読むということをしている自分は(であるからして大変高名な北山氏のような方を寡聞にして知らないまま会場に行くという・・)、こういう時大変得した気分になる。作品という事件の主犯格は概ね二人いて、それは構想とプロセスなのだが、その主にはプロセス面を探偵する自分は、その場で事件が解決しない方がよほど嬉しい。

これらの作品は、一瞬と永遠をショートさせているの感がある。芸術には時間がない。芸術にとっては一瞬も無限も同じである。というか、良き芸術は真実を扱うが故に、真実には時間がなく、時間があるのは人間の側だけ、ということか。

図録も買ってきたがまだ読んでないので、盛大にあさってのことばかり言ってないか少し心配だ。しかし心配症の自分にしては珍しくこういうことについてはさほど心配しないのであった。自分が感じたり考えたりしたことは、これはこれでまごうかたなき一つの真実なのである。

MEM(恵比寿)
6月16日まで


by zelan | 2019-05-19 22:54 | 展示レビュー
2019年 05月 14日

流れる ~ 書家による抽象表現展@ギャルリー志門

「書家による抽象表現展3」(ギャルリー志門)オープニングへ。

制作者の内面について他者が推測してもハデに外すということはありうる訳だが、個人的には制作の主体を自然のエネルギーに意識的に、いい意味で委譲している作家群という感覚を大いに受ける。
別の言い方をすれば、我々(日本人として自分も含めてそうだ)、自然の現象がアプリオリに持っている、流れや変化を作る力をレバレッジして結果として美を現しめようと志向し、そうして、現象と瞬時に対話しながら、実際にそうする、その心性が深くあることを再認識したのである。

墨を使っても絵具を使っても文字をモチーフにしても、これらの作品に共通する情緒というのは一種の、自然を尊重し尊敬した上での「流体技法」という趣きだ。現象も人間の側も共に動き流れていますからね。その状況のスナップショットという感じ。

と、いうのはあくまで「感想」である。こういう感想に理論武装せよ、と言われたら、学者さんになるしかないが、向いてないのでやめておく。自分がこうだと思ったり感じたりしたことに、歴史的文化的背景に関する証拠を集めたり、それに基づいて論理的に組み立てたりするのが申し訳ないがめんどうという、残念なタチなのである。

ギャルリー志門(銀座)
5月18日まで




by zelan | 2019-05-14 09:37 | 展示レビュー
2019年 05月 12日

ゲルハルト・リヒター "PATH"@ワコウ・ワークス・オブ・アート

ワコウ・ワークス・オブ・アートに世界一好きな作家であるところのリヒター展を見に行く。

大昔知人と自分の間で密かに流行っていたことに、「大きく二つに分ける」というのがあった。
多少分けづらくとも、そもそもその対象物をその観点から二つに分けるのがふさわしかろうがなかろうがおかまいなしに。
この二つに分ける作戦はしかし我々だけが使っていた訳ではないようで、以前あるブティックの男性オーナーが、「女の子はお姫様か女中かの二つに分かれるの!」という主旨のとんでもない発言をしていて笑った。

もとい、アート、特に平面作品を見るとき自分は勝手に「眼派」か「脳派」に大きく分けている。視覚を喜ばせる派か思考を励起する派と言えば少しはわかりやすいだろうか。

で、少なくとも今般の展示におけるリヒターは脳派。

Pathというエディション作品がたくさん展示されてて、どれも森の中の小道風の写真に蜘蛛の巣みたいに細い白い線がさっさっと色んな形で載っている。これを見ていくと、考えることがやたらと出てきて急激に頭が忙しくなった。(因みに自分の場合、実作を見るまで敢えてギャラリーによる解説は読まないので、全部自分で考えたり推測したりしなければならないのである。)

  1. 森の小道の写真が同じか違うか(これを見極めるため前後の作品の間を何十回も目線を行き来させる。この時点で完全に行動をコントロールされてる。確信はないが、多分同じ・・、という結論となった。)
  2. その上に色んな形で走っている、白い線みたいなのは何を使ってどうやって施されたものなのか。
    (視覚的にはどうしてもわからなかったが、途中が点々になったりもしてるしなんか修正液みたいなのをはねさせたという感じがするところもある。)
  3. この白線は下の写真となぜどのような企図をもって組み合わさっているのか。あるいはそう組み合ったものがなぜ選択されたのか。
  4. 線の動きは何か参照している形態があるのか。それともこれを付けた時の動作の中で必然的にあらわれるにすぎない形なのか。
  5. なぜ色々な幅で平行になっている二本の線がしばしば現れる一方、ごく微妙に(じーっと見ないととわからない位に)平行をはずしている線同士があるのか、これは意図的か偶発的か。
  6. 構造的にはOverpainted Photographという写真に絵具を施した別のシリーズに似ているが、それとの本質的違いについてはどう認識しえるだろうか。
等々・・・。

こうかな、ああかな、と思う推測が、1点ずつ見ていく内に勝手に動いていって定まらない。頭の中に、まるで結ばれてはほどけ、ほどけてはまた結ばれそうになる糸が出現したような具合。

大型のガラスの作品も展示されていてこれにもまた興奮する。複数枚のガラスを通して外部から差し込む光と、表面にうっすら写る自分の姿を交互に感じるようで、決して定位できない視覚が生じる。ガラスの向こうを意識すると表面を忘れ、表面を見ると奥を忘れる。向かい合う人か壺に見えるルビンの壺みたいに、ゲシュタルトのまとまりがくるくる転換する。言葉では説明しづらいが、Pathにもそういう機能がある。

ハンモックというものに自分は寝たことがないが、ロッキングチェアには座ったことがある。いずれにせよ揺れるもの、不定ということはある意味で快感だ。
芸術の崇高なミッションの一つとも言えるかもしれないが、この間少なくともあれやこれやのこの世の憂さは、観者の中で捨象される。

ワコウ・ワークス・オブ・アート(六本木)で6月1日まで

(上記の疑問のいくつかは、解説でわかります。)


by zelan | 2019-05-12 20:49 | 展示レビュー
2019年 05月 08日

時間にも質量がある ~上野の森美術館大賞展

明日をひらく絵画 第37回 上野の森美術館大賞展へ。

ずーっと見ていくと、なんとなく落ち着いた気分、というか、やや過剰にまったりした気分になっていく。個々の作品故というより、力を込められた主には100号級の大きな絵がずらっと並んでいるという、単純にその物理的圧力もすごい。

そう感じつつ一番大きな部屋でぐるっとまわりを見渡した自分は、これが書の展示であればこの圧してくる感じは少なかろうとふと思った。余白が多いとか少ないとか、色彩とかを越えて、かかっている「時間」は一つの質量である。
これらの絵を描くのにかかった時間を総計すると、どれ位になるだろう。入選142点で2万時間位かな。このあたりの根拠はごくごく雑駁だが、実勢上フルタイムアーティストでない人も多いだろうので1点あたり3時間/日X1.5カ月X142で推定。でもそうすると起きてる時間全てを使って一人の人が全部描いたとして3年半か・・それぢゃ無理な気がする。ということは恐らくもっとかかってるのだ。

絵を描くって自分が思っているよりすごく大変なことなんぢゃないんだろうか・・という思いがよぎって少しコワくなった。
もちろん全てがそういう作品でなく、抜け感のあるさっぱりした作品も時々あって、そこで息つぎをしながら歩いていったが、主として技法、そして体力・気力や趣味嗜好等々の理由から大きい画面も爆速で描くという向きの戦略または制約のある自分からすると、この時間的圧力はもう異界に迷いいったという感じすらしてきたのであった。

外に出たら急に動物園を見たくなりそちらに歩を進めたが、100メートル程前から門に「休園」という札がしっかりかかっているのが見えてがっかりした。ほぼ30年ぶりに動物園に入りたくなった理由は謎である。


by zelan | 2019-05-08 08:32 | 展示レビュー
2019年 05月 06日

水の中の宝石

庭園美術館でキスリング展をやっている。以前彼の絵画をギャルリーためながで見た際に、「水の中の宝石」と感想を述べたことがあるけれどもまさにその通り。濡れ色の豊かな響き。これらの作品を見ると、美しい色の感受も心身にとってのひとつの明確な「栄養」であることがよくわかる。

東京都庭園美術館(目黒)
7月7日まで




by zelan | 2019-05-06 08:13 | 展示レビュー
2019年 04月 05日

「感想」を確認に~「岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟」@東京都庭園美術館

1950年代に集中的に制作したコラージュ作家、岡上淑子の展示に東京都庭園美術館へ。
実は二回目。さすがに同じ展示を二度見に行くのは稀だが、とても楽しみにしていた展示だったにも関わらずどういう訳か最初に見た時に「はっきりした感想」が思い浮かばず、なんだかもやもやしていたからである。

理由を考えながら見ていくと、ある程度はわかった。

1.コラージュのモチーフとして結構細かい物品が多く、目と脳が泳ぐ。
画面は小さいが具象物の情報量が多いため、頭の処理に対しオーバーフローした。
2.結局のところコラージュというのは「いわくいいがたし」が志向され組み立てられているのであって、「イメージ」としてはばっちりしっかりの強度があっても、言葉にしづらい。
(分析的に見るなら、時代背景とかフェミニズム的な視点とか言葉や思考でひもとく手がかりはありそうだが、そうした言説はちゃんと書いてあったので自分ではあまり改めて考えたり感じたりしなかった・・。)

途中でエルンストの素晴らしいコラージュ・ロマンのコーナーなんかもあって全体としていい展示だ。
1回目に一緒に行った、諸展示に安々とは高いお点を付けない知人も「おもしろい!」とご満悦だったし。

それにしてもコラージュという技法(の本質を用いた優れた作品)がいかに激しく「統合的なもの」であるかを改めて認識する。
コラージュにも様々な情緒や構想があるし、必ずしも全てとは言えないが、個々の素材間は限りなく遠く離して、最終的に一つの画面に展開するときには人の脳の統合作用を刺激してイメージを絵空事でなくむしろリアルにする。
言葉で言える範囲のためとても雑駁な例だが敢えてあげると、タキシードきた七面鳥みたいなえせ紳士って、いますよね・・。離してからくっつける、この移動距離が大きければ大きい程おもしろい。

コラージュは、分裂的で、超現実的なものと思われているかもしれないが実は真逆。
様々な芸術技法の中でもことさら、脳において賦活させる機能という点からは統合的であり、そのイメージはむしろいかに現実的であるかを競うているのだ。

4月7日まで。



by zelan | 2019-04-05 11:29 | 展示レビュー
2019年 04月 02日

これ俳句 ~ 内藤京平「luna o lunar」@Bambinart Gallery

3月に開催されていて既に終わってしまった展示ではあるが、アーツ千代田3331のBambinart Galleryで内藤京平氏の個展を見た。

古典絵画からのモチーフと線とドットで構成されていて、基本それ以外の要素を含まずミニマルにまとめられている。余白が非常に大きい作品もあって自分は氏の「抑制力」に感心した。自分なら余計なサービス精神を余計さが出ないように四苦八苦しつつそれでも余計にやってしまう可能性がある。

さてミニマルとは言ったが絵画は要素が多かろうが少なかろうが適確な情報密度が必要で、情報密度とは即ち脳及び視覚を始めとする身体感覚への刺激であろう。そしてどこにその刺激を感じるかということは個人差があるかもしれない。自分の場合は具象モチーフ部分がどのように作成されているのかしげしげと見つめてもよく分からないことにいたく興奮した。描画材で描写したようには見えないのだが、印刷物を貼った感じでもなく表面に蜜蝋状のくすみ・・・もしくはメディウムを混ぜた絵の具とかもしれないが・・が施されている部分があってそれが背景とのなじみをよくするとともにモチーフ部分のマチエールに深さを与えている。もしかしたらタトゥーシール的なものも利用されているのかとも思ったが、例によってどこかに書いてあるかもしれないけどそれを調べないで想像することに喜びを見出す自分には、何が正解なのかわかんないのであった。

要素極小にして深く楽しめる、俳句みたい。

展示概要


by zelan | 2019-04-02 11:22 | 展示レビュー