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原初のキス

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カテゴリ:展示レビュー( 20 )


2019年 09月 20日

糸は水 ~ 手塚愛子個展@MA2 Gallery

はは~ん、糸は水なんだな、とギャラリーの3階への階段を登りきった所にある小品を見て自分は突然悟った。

手塚氏は織物の糸をほどいたりそれを更に編んだような作品(とは雑駁な説明である。後段のリンクを乞参照)を制作しておられるが、この作品は花柄の布が上の方にあってその下はそれをほどいたように見える糸が垂直に垂れていて~というか、糸の一部あるいは全体が多分パネルかカンヴァスであろう支持体に貼ってある・・ああ、説明が難しい!~ものであった。糸に青系が含まれていたこともあってその様子は自分的には「滝」を思い起こさせた。それで上述の認識に至ったのである。

だから何?ということは自分でもうまく言語化できるかきわどい。でも要は、糸は水のように、物理的にはいかような形もとりうる存在であり、それがよりあわさって固体である布になるし、あるいは、布が糸へとほどかれることもあろう、というのを改めて認識したということ。
即ち、布という存在に対する過去と未来をまさに流動的に示しうるのであって、実際、これらの作品は布ができた後からほどかれたのか、これから布へと編まれるのか、それがよくわからないところが自分的にはおもしろかった。
ここにある「作品という現在」は、主には過去の結果を表しているのか(布をほどきました)、これから向かう未来を示唆しているのか(続きをこれから編みます)、それが見ている自分には決定できない、ということが、時間的輻輳性を感じさせ、それが非常に幻惑的で興奮したのです。

でも織物のことわかってる人ならそれは明確にこっち!とか言えるのかなあ・・。まあ自分のリテラシーのなさも時に鑑賞に役立つこともある。因みにここにおける「鑑賞」とは、自分が楽しめる、ということである。

Flowery Obscurity 華の闇
MA2 Gallery(恵比寿)にて
9月28日まで





by zelan | 2019-09-20 21:51 | 展示レビュー
2019年 09月 14日

ピーマンと神棚 ~「話しているのは誰? 現代美術に潜む文学」@国立新美術館

90年代に「料理の鉄人」というTV番組があり、時々見ていたのだが、その中で自分の印象にひどく残っているのがピーマンが食材としてフィーチャーされた回であった。その時確か外国の料理人が、ピーマンのピューレというかスープ的なものを作り、確か(確かが多い・・)さる有名コピーライターの評者が、そのおいしさに対し、「ピーマンに生きる意味を与えた」という主旨のことを言ったのである(多分)。印象に残ったと言っている割に正確性が捨象されちゃってること、それとピーマン農家さんにも少し申し訳ない記憶だが、この「XXに生きる意味を与える」ということって、あるよね、と当時思ったことは確か。

国立新美術館の企画展「話しているのは誰? 現代美術に潜む文学」を見に行った。幅広い年代の複数の現代作家の作品展示で、自分がぐっと来たのは豊嶋康子氏のパートだった。木製パネルの裏返したやつにやはり木製パネルの足というかガワのようなものを様々に切ったりしてパズルのようにはめてあり、所々に板、板の上にビスなんかも打ってある、そうしたパネルが額ひも状のもので壁から斜めに浮かして取り付けてあったり、棚状にして神棚みたいに高い処の壁に貼ってあるのもあった。当然のことながら自分はそのパネルの足やら、翼を広げたような形の頭がついてるビスやら、通常はパネルの裏側に隠れて釘にかかってるだけのひもが、壁から斜めパネルを実現するにあたり表だって働いているのをしげしげと見る。これらは一種のパラレルワールドみたいなもので、普段非常に脇役というか単に機能を押しつけられてそれをこなしてるだけで雌伏?している物たちが急に出張ってアートしている(ていうかそういうものが出張ってることがアートの一要件を成してる)のが新鮮だった。自分がパネルの足だったらドヤ顔をしたい処だったろう。ピーマンが生きる意味を与えられたように。
言うまでもなくこれはあくまで個人的感想にすぎない。だって例によってキャプションや解説を殆ど読んでないし・・説明を読まずに書く展示感想文ジャンルを確立したい位だ。あれ、でもこれらの作品と文学とどう関係するんだろう・・解説を読まないで若干困るところはこういうとこ。

この展示、他には映像やインスタレーションが多い。それにしても年齢のせいもあるのか鑑賞に一定の時間を要する映像作品をゆったり味わう丁寧な心持ちが欠けてきた昨今、やっぱりパっと見てパっと頭が動き始めるもの、というジャンル及び作品の存在はありがたい。

国立新美術館にて、11月11日まで



by zelan | 2019-09-14 14:01 | 展示レビュー
2019年 08月 16日

中谷ミチコ 「 白昼のマスク / 夜を固める」@アートフロントギャラリー(代官山)

今さっき代官山のアートフロントギャラリーにて、中谷ミチコ 「 白昼のマスク / 夜を固める」展参観。
樹脂を使った作品で、通常現実では凸になってるイメージが凹になってるとこが面白い。
視覚体験として珍しいというだけではなく、なんだか網膜で物が逆に写ってることとか、脳という器官が不断に外界を認識し主体?に伝えてくるその機能やありさまなどについて強制的に思いを馳せさせられる(少なくとも自分はそうなった)、そういう感覚がいいのである。

と、いうようなことを、以下の解説を読む前に考えた。解説はこちら。



by zelan | 2019-08-16 19:43 | 展示レビュー
2019年 06月 22日

戦略と機嫌~ユアサエボシ「曲馬考」@銀座 蔦屋書店

ユアサエボシ氏の「曲馬考」。Ginza Sixの蔦屋でやっていて見に行き、画力は素晴らしいし構想もプレゼンもコンテンポラリーの戦略的な視点からは満点な感じ(って自分が偉そうに言っていいかはわからないが)であって、視覚的にも脳的にも大変に面白かったので自分は喜んだ。

ところが、一緒に行った知人の機嫌が悪くなってしまったのだ。
過去に生きた架空の画家の描いた絵、というしつらえなのだが、十分に過去ではない、過去の人では描けるはずのないものを描いている、と、言うのである。言ってることとやってることが違うのは許せん!と言われ、ちょっとマッチョに聞こえるけど筋が通っているとも思われる意見で(ちなみにこの知人は美術方面にはかなりのリテラシーがある人だ)、一方「なんか違う・・いや、かなり違うのでは」とも思ったが、しかし反論する体力も気力もそしてそこまでの動機もなく寂しく佇んでしまったのであった。

何を言いたかったのかわからなくなりそうなのであえてまとめると、

  • 多くの人、特にコンテンポラリーが好きな人々にはかなり刺激的で素晴らしい展示と思うので、見に行かれるとよいのではないか、というお勧め 

そして、

  • 「鑑賞」とはいつまでもどこまでも自由なもので、それぞれの人の立場を貫いて意見を吐露するのはよいと思う、

と、いうことである。

銀座 蔦屋書店 アートウォールギャラリー
7月12日まで。






by zelan | 2019-06-22 21:22 | 展示レビュー
2019年 06月 15日

Katrien De Blauwer @POST(恵比寿)

先頃恵比寿のPOSTへ、カトリアン・デ・ブラウワーのブックサイニングイベントに行き、こちらで紹介されている本を購入。 非常にセンスのいい、上品寡黙でありながらセクシーな作品群。

彼女の作品の中で自分なりに特にぐっときたのがこのサイトの中にある顔の上の方が木になったり窓になっている作品。

木や窓と髪や目との形態的類似は明らかで、通常はもっと人を食ったような感覚が生じそうなものだが、むしろ深い詩情を感じる。何というか、人間、人工物、自然それらは結局のところ存在として通底しているのではないか、と言った、かなりシリアスな感覚を覚えさせられるのであった。

7月21日(日)まで、POST内mini galleryにて小品が展示されている。








by zelan | 2019-06-15 19:12 | 展示レビュー
2019年 06月 11日

内気の威力 ~ ジョゼフ・コーネル展@DIC川村記念美術館

東京から遠いという理由で何となく後回しにしていたDIC川村記念美術館ジョゼフ・コーネル展を駆け込みで参観。実際に見てみると、初期のコラージュから彼のキラーコンテンツであるところのボックスアート、更には見る機会の至極少ない映像作品まで堪能できる充実の展示で、東京駅から1時間直通バスに揺られたかいがあったというもの。
特に、生涯ほぼニューヨークの中だけで過ごした彼の、行ったこともない国のエキゾチックなホテルの一室を模したり、鳥や蝶などが主役だったり天文のイメージが跋扈する、地理も種族も空間も超越した緻密でリアルな箱作品には、驚愕するしかない。

この展示では、彼の「内気な変人」と言う一般的なイメージに逆行する多彩な交友録~人からもらったり人に宛てた手紙など~も多数展示されているが、それでも結局の処非常に内向的な人間だったという印象がその作品から残る。いいではないか内気でも。内気のエネルギーだって宇宙まで飛ぶことができる。



by zelan | 2019-06-11 22:44 | 展示レビュー
2019年 05月 19日

プロセス探偵完敗すの巻 ~ 北山善夫展『事件』@MEM

展示に足を運ぶ大きな理由の一つに、制作プロセスについて想像し、刺激を受けるというのがあるが、本展オープニングに行って最初の作品を目にした自分は、その前で長時間凝固してしまった。

・・作り方が、全然、わからない。

それは例えばこのような作品なのだが、小さい点のようなものやその他の形態が密集して種々動勢の上を濃淡を含みながら、支持体のほぼ全面に配されている。更にどの作品を見ても、自分の全然わからないは継続するのであって、極めつけは少し区切られた奥のスペースに展示してあった、大量の泥人形のようなものが折り重なったり絡んだりと大変なことになっている作品だった。泥人形の集団を自分は見たことがないが、その像が異常に「精確」であることは何故かわかった。そこで連想したのは、「写真」である(ただしマチエールは全然違う)。全作に共通してそれらの相貌としては、一瞬または時間の超越(即ち永遠)を感じさせ、また明確に異界風なのに、なぜか恐ろしく現実的。

しばらく観察していた自分はしかし、プロセス全部が人力(じんりき)の訳ないよね、と一応のところ結論づけた。なぜなら、人が手だけでやるものとしては単位面積あたりの情報のビット数があまりに巨大で、これが達成できるのは自然による「現象」か、あるいは疲れを知らぬ装置などがまさに機械的に生成するこれもまた別種の「現象」だけであろうと感じたからである。
デジタルと人力の複合技法かとも思った。特殊なメディウムも用いて転写とかはじきとかが活用されているかもしれないし、イメージの形態とか質感自身にもデジタルを感じさせるところがある(恐らく均質・精緻とか精確性といった印象の側面で)。キャプションを見たらインクとあって、出力を一部用いていたってインクはインクだ、と自分を納得させるが、どうも感覚的に腑に落ちない。で、実際は全て北山氏の手によってのみ作られていたのである。

通常、案内のイメージだけ見て展示に向かい、展示が気に入れば解説を後で読むということをしている自分は(であるからして大変高名な北山氏のような方を寡聞にして知らないまま会場に行くという・・)、こういう時大変得した気分になる。作品という事件の主犯格は概ね二人いて、それは構想とプロセスなのだが、その主にはプロセス面を探偵する自分は、その場で事件が解決しない方がよほど嬉しい。

これらの作品は、一瞬と永遠をショートさせているの感がある。芸術には時間がない。芸術にとっては一瞬も無限も同じである。というか、良き芸術は真実を扱うが故に、真実には時間がなく、時間があるのは人間の側だけ、ということか。

図録も買ってきたがまだ読んでないので、盛大にあさってのことばかり言ってないか少し心配だ。しかし心配症の自分にしては珍しくこういうことについてはさほど心配しないのであった。自分が感じたり考えたりしたことは、これはこれでまごうかたなき一つの真実なのである。

MEM(恵比寿)
6月16日まで


by zelan | 2019-05-19 22:54 | 展示レビュー
2019年 05月 14日

流れる ~ 書家による抽象表現展@ギャルリー志門

「書家による抽象表現展3」(ギャルリー志門)オープニングへ。

制作者の内面について他者が推測してもハデに外すということはありうる訳だが、個人的には制作の主体を自然のエネルギーに意識的に、いい意味で委譲している作家群という感覚を大いに受ける。
別の言い方をすれば、我々(日本人として自分も含めてそうだ)、自然の現象がアプリオリに持っている、流れや変化を作る力をレバレッジして結果として美を現しめようと志向し、そうして、現象と瞬時に対話しながら、実際にそうする、その心性が深くあることを再認識したのである。

墨を使っても絵具を使っても文字をモチーフにしても、これらの作品に共通する情緒というのは一種の、自然を尊重し尊敬した上での「流体技法」という趣きだ。現象も人間の側も共に動き流れていますからね。その状況のスナップショットという感じ。

と、いうのはあくまで「感想」である。こういう感想に理論武装せよ、と言われたら、学者さんになるしかないが、向いてないのでやめておく。自分がこうだと思ったり感じたりしたことに、歴史的文化的背景に関する証拠を集めたり、それに基づいて論理的に組み立てたりするのが申し訳ないがめんどうという、残念なタチなのである。

ギャルリー志門(銀座)
5月18日まで




by zelan | 2019-05-14 09:37 | 展示レビュー
2019年 05月 12日

ゲルハルト・リヒター "PATH"@ワコウ・ワークス・オブ・アート

ワコウ・ワークス・オブ・アートに世界一好きな作家であるところのリヒター展を見に行く。

大昔知人と自分の間で密かに流行っていたことに、「大きく二つに分ける」というのがあった。
多少分けづらくとも、そもそもその対象物をその観点から二つに分けるのがふさわしかろうがなかろうがおかまいなしに。
この二つに分ける作戦はしかし我々だけが使っていた訳ではないようで、以前あるブティックの男性オーナーが、「女の子はお姫様か女中かの二つに分かれるの!」という主旨のとんでもない発言をしていて笑った。

もとい、アート、特に平面作品を見るとき自分は勝手に「眼派」か「脳派」に大きく分けている。視覚を喜ばせる派か思考を励起する派と言えば少しはわかりやすいだろうか。

で、少なくとも今般の展示におけるリヒターは脳派。

Pathというエディション作品がたくさん展示されてて、どれも森の中の小道風の写真に蜘蛛の巣みたいに細い白い線がさっさっと色んな形で載っている。これを見ていくと、考えることがやたらと出てきて急激に頭が忙しくなった。(因みに自分の場合、実作を見るまで敢えてギャラリーによる解説は読まないので、全部自分で考えたり推測したりしなければならないのである。)

  1. 森の小道の写真が同じか違うか(これを見極めるため前後の作品の間を何十回も目線を行き来させる。この時点で完全に行動をコントロールされてる。確信はないが、多分同じ・・、という結論となった。)
  2. その上に色んな形で走っている、白い線みたいなのは何を使ってどうやって施されたものなのか。
    (視覚的にはどうしてもわからなかったが、途中が点々になったりもしてるしなんか修正液みたいなのをはねさせたという感じがするところもある。)
  3. この白線は下の写真となぜどのような企図をもって組み合わさっているのか。あるいはそう組み合ったものがなぜ選択されたのか。
  4. 線の動きは何か参照している形態があるのか。それともこれを付けた時の動作の中で必然的にあらわれるにすぎない形なのか。
  5. なぜ色々な幅で平行になっている二本の線がしばしば現れる一方、ごく微妙に(じーっと見ないととわからない位に)平行をはずしている線同士があるのか、これは意図的か偶発的か。
  6. 構造的にはOverpainted Photographという写真に絵具を施した別のシリーズに似ているが、それとの本質的違いについてはどう認識しえるだろうか。
等々・・・。

こうかな、ああかな、と思う推測が、1点ずつ見ていく内に勝手に動いていって定まらない。頭の中に、まるで結ばれてはほどけ、ほどけてはまた結ばれそうになる糸が出現したような具合。

大型のガラスの作品も展示されていてこれにもまた興奮する。複数枚のガラスを通して外部から差し込む光と、表面にうっすら写る自分の姿を交互に感じるようで、決して定位できない視覚が生じる。ガラスの向こうを意識すると表面を忘れ、表面を見ると奥を忘れる。向かい合う人か壺に見えるルビンの壺みたいに、ゲシュタルトのまとまりがくるくる転換する。言葉では説明しづらいが、Pathにもそういう機能がある。

ハンモックというものに自分は寝たことがないが、ロッキングチェアには座ったことがある。いずれにせよ揺れるもの、不定ということはある意味で快感だ。
芸術の崇高なミッションの一つとも言えるかもしれないが、この間少なくともあれやこれやのこの世の憂さは、観者の中で捨象される。

ワコウ・ワークス・オブ・アート(六本木)で6月1日まで

(上記の疑問のいくつかは、解説でわかります。)


by zelan | 2019-05-12 20:49 | 展示レビュー
2019年 05月 08日

時間にも質量がある ~上野の森美術館大賞展

明日をひらく絵画 第37回 上野の森美術館大賞展へ。

ずーっと見ていくと、なんとなく落ち着いた気分、というか、やや過剰にまったりした気分になっていく。個々の作品故というより、力を込められた主には100号級の大きな絵がずらっと並んでいるという、単純にその物理的圧力もすごい。

そう感じつつ一番大きな部屋でぐるっとまわりを見渡した自分は、これが書の展示であればこの圧してくる感じは少なかろうとふと思った。余白が多いとか少ないとか、色彩とかを越えて、かかっている「時間」は一つの質量である。
これらの絵を描くのにかかった時間を総計すると、どれ位になるだろう。入選142点で2万時間位かな。このあたりの根拠はごくごく雑駁だが、実勢上フルタイムアーティストでない人も多いだろうので1点あたり3時間/日X1.5カ月X142で推定。でもそうすると起きてる時間全てを使って一人の人が全部描いたとして3年半か・・それぢゃ無理な気がする。ということは恐らくもっとかかってるのだ。

絵を描くって自分が思っているよりすごく大変なことなんぢゃないんだろうか・・という思いがよぎって少しコワくなった。
もちろん全てがそういう作品でなく、抜け感のあるさっぱりした作品も時々あって、そこで息つぎをしながら歩いていったが、主として技法、そして体力・気力や趣味嗜好等々の理由から大きい画面も爆速で描くという向きの戦略または制約のある自分からすると、この時間的圧力はもう異界に迷いいったという感じすらしてきたのであった。

外に出たら急に動物園を見たくなりそちらに歩を進めたが、100メートル程前から門に「休園」という札がしっかりかかっているのが見えてがっかりした。ほぼ30年ぶりに動物園に入りたくなった理由は謎である。


by zelan | 2019-05-08 08:32 | 展示レビュー