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原初のキス

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カテゴリ:社会について( 5 )


2019年 09月 30日

増税と怪我の功名

増税前の駆け込み購入というのは少し恥ずかしいんですが自分もやった。でもそれでびっくりしてしまったのが、自分が定常使用している複数の制作資材について、ちょっと検索してみるとこれまでの価格より50%以上安いものを売っている業者さんがあったことを知ったことである(もちろんそこからまとめ買いしたし、今後ともそこから買う)。増税って個人的にはなんか甚だしく怪我の功名をみたいな状況に、少なくとも今の処はなっている。

いずれにせよ、「2%」増の前に日用品にすら殺到する人々のことを見るに、考えてみたら「物事を明確に数値化する」ということの威力をいまさらながら感じた。自分がビジネスコンサルタントだったら事例として使うかもしれない。今回の増税に関してはちょっと日本人がイベント化しているの感すらあり、経済に関わる事なので軽軽に印象を述べるのはどうかとも思うが・・え~と、少し面白いのである。結局何でも楽しめる。



by zelan | 2019-09-30 23:39 | 社会について
2019年 08月 28日

論理的に腑に落ちないこと

それにしてもなぜこうなっているんだろう・・・と論理的な座りの悪さを感じることの最たるものとして、「新宿駅(の少なくとも自分がよく乗る山手線)にホームドアがない」ことがある。
ここにないんなら他の駅もいらないのではないかと思うし、他がいるんならここも絶対にいるはずだ。ちなみに私は後者だと思っており、この事案には何か非常なる大人の事情的なものが関与しているのでは、・・・と、疑っているのである。

自分の尊敬する経営コンサルタントに横山信弘さんという方がいて、この方が「絶対論感」ということを提唱されている。この例を絶対論感という関連で申し述べるのはそれこそちょっとズレているのかもしれないが、どうも論理的に納得感がなく、つまりは「作ればいいのにホームドア」と、世界堂(とばかりは限らないが)に行くのに新宿駅を使うたびに頭がムダに動いて忙しくなってしまうのであった。


by zelan | 2019-08-28 21:47 | 社会について
2019年 05月 14日

ポピュリズム

昨今、世界的に見ればポピュリズムが台頭してきてヤな感じではあるが、今日ふと、ブッダが「世の中はあべこべである」と言ったことを思い出す。

2600年位前から、「世の大勢」の考え方なり感じ方なりというのは、世界平和的観点から適切なのと不適切なのに大別すれば大抵の場合不適切な方に寄ってしまうのであろう(だって我々は多くの場合利己的で煩悩にまみれているから)。そういう基盤のある上で「操作」しようとすれば、その方面の嗜好なり実行力のある人々にとっては容易なはずで、そうして世の中全体が不適切な方に更に寄って行ってしまうのではないかしら。


by zelan | 2019-05-14 21:41 | 社会について
2019年 04月 14日

失言と全体視

美術というものは原理的に、「全体視」や「客観視」という、人間にとってはなかなかハードルの高いことの実践を要請するものであると自分は思う。
だから鍛錬するのにかなり時間がかかったりもするし、また人に根本的には欠けているといっていい位のこれらのことに関わるという点で、チャレンジするかいがとても大きいものなのだ。

で、近頃、忖度や被災地についての発言に関連して政治家が次々と辞めるということが続き、この全体視のことを考えていたのである。
前後の発言を全体として見ると、自分が何派でだれそれさん命だとか、自分の過去の深刻な失言に言及して笑いをとったりとか、そもそもそういう話を本質的に政治家からは一切聞きたくはない。一から十までとは言わないまでも、哀しいかな一から九位までは、全然ダメ。有権者としては完全に無関係とも言えず、哀しさはいやまさる。

ところで以前勤めていた会社でデッサン演習というのがあって、なんと石膏像(ヴィーナス)を「ものを正しく見る」という訓練のために木炭で描く、ということをした。(当時の感覚では、ん~って感じだったけど、今だったら1000倍位楽しめるかも。)
「惜しい!他は完璧だけど、鼻だけちょっと低すぎますね」ということは厳密にはありえない。我々の存在というものは常に、かなり「全体」なんである。

ということは何を意味するのかと言えば、自分のなす一つ一つの事柄はやはり自分の「全体の一部」でありその一部は全体の鏡なのだから、心してやるべし、ということかしら。(失言を論じて結局自分へのハードルを上げたなり。)


by zelan | 2019-04-14 20:58 | 社会について
2019年 04月 03日

バギーでスマホ

自分は絵を描くのでまざまざと実感できるが、人間の感覚的リソースというのは一時にはそんなにマルチな事柄に振り向けられない。何か作業していてふと「この前あの人が言ったあの一言、むかっぱらが立つ~」と脳内焦点が一瞬シフトしただけで、もうこれは100%といっていい位に、ろくなことにはならないのだ。

という訳でこの前バギーに乗った赤ちゃんが真剣な顔でスマホを凝視しているのを見て自分は恐れをなした。
暑いとか寒いとか、空気がいいとか悪いとかの方が赤ちゃんにとっては重要でそれで泣いたり騒いだり笑ったりする方がいいのではないかと思ったからだ。スマホを見ていたら必ずやある種の「感覚遮断」に陥ってしまう・・。
でもスマホだのITだのはとっても便利だし、藤井X段(何段だか知らない・・)なんかが超絶強いのもITによる学びや研究が寄与しているらしい。

なので結局、「ま、ものは使いようよね・・・」という人類が道具を持った時点から既にずーっと変わっていないだろう結論に落ち着くのだが、しかしその、「ものは使いよう」という線を的確に実現するのが一番難しいのであって、ブッダも「中庸とは難しいものである」と言っている(はず、確かにどこかで聞いた気がする)。
自分の感覚では、中庸を極めようとすれば結局、感覚・知力を盛大に使って個々人において経験し、また見極めていくことになる。そういう意味ではここにいる私が今、そしてこれからどうITを使っていくかなど、殆どアートに近い。

そう、アートというのは特別のことでなく、生きることそのものがアートまみれなのだ。だから自分は(特に日本語においては)基本アートという言葉を使わず、制作行動の周りや展示をやったり見たり考えたりといったあたりのことどもについては、極力美術または芸術と言って、誰からも頼まれてないのに一人勝手にアートの領分を狭めているのである。



by zelan | 2019-04-03 21:17 | 社会について