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原初のキス

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カテゴリ:美術について( 8 )


2019年 03月 22日

機能

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人が常日頃、それが「常日頃」と言っていいくらいに本当に見ているか、本当に感じているかはあやしい。少なくとも自分には自信がない。
美術は見たり感じたりすることをやや強制的に発動させるというねらいと機能を持っている。つまり私たちを、少しだけ正気に立ち返らせてくれる。


by zelan | 2019-03-22 15:01 | 美術について
2019年 03月 21日

ビジネスとアート

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絵画とか芸術一般と「感性」の働きというものは、創るにせよ鑑賞するにせよ当然のことながら本質的な要素である。
しかし特に創るという自分の基本的な立場からすると、ヴィジョン・集中と選択・技術とその差別化・情報と知識の収集と取捨選択・自分自身及び関係する他者のマネジメント等々制作や発表における諸々はむしろビジネスの世界でより精緻に体系化/整理されていて、自分は絵画の技法書も買うが「美術のために」ビジネス書をその5倍位は買っている。

最近ビジネスの世界のアートへの関心が高まっていて、その際しばしばアートを感性の側面から主には特徴づけるという場合が多いが、自分は上述の認識もありアートに関し感性に代表させるラベルは貼りづらいと感じており(実の処それ以外のラベルを貼るのも難しいのかもしれないが)、いずれにせよビジネスとアートは基本はイーブンに補完的なものであろうと思っている。

ビジネスとアートと言うと印象としてまるで西洋医学と東洋医学の関係みたいに聞こえたりもするが、これらの差よりずっと、ビジネス(の特に経営層の目線や技能)とアートの距離は近い。


by zelan | 2019-03-21 23:40 | 美術について
2019年 03月 19日

起床して夢から覚める

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自分がいつ自らの描きかけの絵のその時点での現実に気づくかといえば、起床直後である。
寝ている間にいろんなことが整理された脳と疲労物質が分解されて刷新した肉体、この二つを持って朝しょっぱなから結構な失望に襲われるという訳。嫌になる位それの繰り返しだが、人間の心身にそういう機能が備わっていることは、前に進むためには僥倖というものだろう。

そしてここでこの言葉を引用するのもおこがましいというものだけれども失望はしても絶望はしてはならない、ということ(明石康・元国連事務次長の言葉)。

(図像 是蘭 Work in progress)


by zelan | 2019-03-19 09:39 | 美術について
2019年 03月 16日

テープのり、テープかのりか

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自分は文房具入れの引き出しにラベルを貼り、中に何が入っているかを分かるようにしている。
先日「テープのり」が使いたくて棚のところに行ったのだが、「テープ」と「のり」というラベルが別の引き出しに貼ってあってどちらに入っているのか迷ってしまった。
別に二つ開けてみればいいことであって(実際そうして結果「のり」のところに入っていた)、また今後迷いたくないということであれば両方の引き出しに入れておいてもいいし、大層な実害はないのだが、自分はこういう事象に遭遇するとなんだか頭の中がモヤモヤして、すごくヤなんである。

ゲルハルト・リヒターが絵を描くことは言語を使う通常の思考とは異なる全く別の思考の形態であるという主旨のことを言っているが、ふとそれを思い出す。自分の考えではこの立場を取ればテープのりはテープのりなのであり、現実のものを現実そのものとして受け止めるには、言語で文節されない認識の方法もまた、必要なのだ。
テープのりという存在は、純粋にテープでもなければのりでもない。血を出さずに肉だけ切れないように、テープとのりは分けられない。だから個々にラベルを貼った引き出しに分けて入れられないのである。それなのに現前としてテープのりというものが存在するという認知的不協和が、自分をどうしても不愉快にしてしまうのである。

ということで新たに「テープのり」ラベルを引き出しに貼ろうかしら。でもたかだか2,3個のストックに、新たに堂々たる一つの場所を与えるのもねえ・・。


by zelan | 2019-03-16 09:05 | 美術について
2019年 02月 20日

パンをやらんとして犬にかまれるの巻~美術と予測


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実家に帰省した際、親の飼っていた老犬にパンをあげようとして口元にもっていったらいきなりガブリとやられ、手から流血したことがあった。
そういえば、子犬を抱いて不用意に別の犬の前を横切り後ろから腿を思い切り噛まれたこともある。この時は10 センチ ぐらいのあざになった。犬たちは本能で反応しているので要は自分が悪い。こういう行動をとればどういう結果になりうるかというヒヤリハット予測が決定的に欠如していたのだ。

翻って美術とはかなりの処、このヒヤリハットで成り立っている。この色とあの色を混ぜたら濁るとかこの支持体に対してはどういう下処理をしておかなければ後で困るとか、目指す表現を得るその何層も何層も前の段階から、ヒヤリハットは至極重要そういう意味では、次第次第にでも「注意深さ」といった性質が醸成されてくる訳で、ここでもやはり美術(芸術と一般化してもよい)は見るだけでなく行うのがトクだ、という結論に、自分は至るのである。


by zelan | 2019-02-20 22:35 | 美術について
2019年 02月 14日

アートと人格

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自分は人は誰でもアートをした方がいい(こういう時は「美術」より「アート」という言葉が合いますね)、というとんでもないことを考えている人間だが、(しかしアイスホッケー狂いの人が「人は誰しもアイスホッケーをすべき」と主張したら即座に断る!冷え性だし運動神経もないし)、アートのいいところの一つに、「人のせいにできない」というのがある。自分の目の前に自力で展開させるささやかな世界の責任は自分自身が担っている。ときたま、100円ショップで買った30センチ定規がやわらか過ぎてカッターで紙を切ろうとしたら定規の方が切れてしまう、という事態が生じた際など人のせいにしたくなるが、基本作品上の成功も失敗も自分のせい。

不用意に人のせいにしない、というのは人が持ちうる人格上の美点のひとつだ。その意味でアートは人格をじわじわと向上させていくための行為でもある。


by zelan | 2019-02-14 09:33 | 美術について
2019年 01月 31日

ほぼ80%の確率

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夕食時となりの席で話している女性二人組が、職場の同僚ないし上司への愚痴を一方が主に語りもう一方が同調しつつ増長させるという会話の流れで盛り上がってきたかと思うと突然、いきなり私の定義によるオカルトやニューエイジ方面(占いだの方たがえだの前世だの・・)になる、という確率があまりにもあまりにも高い。世代問わず自分の感覚ではほぼ80%くらいなのである。(私はいろいろなレストランに出没しているというのに)。

自分が社会学者だったらこれを研究対象にしたい(まずはほんとに80%なのかを確認しよう)。でも日本女性が30年間世界第一位という長命を享受しているということは、これが一種の「健康法」である可能性がある。調べるのは社会学者じゃなくて医学研究者の方がよいのか・・。

自分はアートを作ったり見たりするのも立派な健康法たりうると思っているが、ただ作ったり見たりするだけでは効果が十分でなく、いくらか見る物の質や見る方の鑑識眼というものが関係しそうだし、愚痴とかオカルトほどスカっとはいかないだろう。

でもなんだか、こっちの方をおすすめしたいような気がするのである。


by zelan | 2019-01-31 11:55 | 美術について
2019年 01月 29日

基本というもの

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基本というのは先人の知識経験の集大成なので決して初歩的ということではない。
むしろもしも基本と言われるものを誰かから習ったりあるいは調べて情報を得るのでなければ、基本及びその重要性に気づくのは結構経験を積んでからということになる。私は美術を高名な美術家の方に手ほどきを受けたが、彼らが伝えるのは言ってみれば表現する際に考慮検討すべきエッセンスの方で、いわゆる基本ではなくましてや初歩的な要素などではなかったように思う。そしてこのブログにも記事を書いたことがあるが、例えば私の先生に構図の理解を深めたいと言ったら構図でなく人間の視覚の原理が重要だと彼は言ったのだ。

ともあれ基本を最初から全部習ってしまったり人から聞いたりしらみつぶしに調べてしまうのは、なんだか少しもったいないし、ちょっと危ないと思う(経験より言語の理解があまり先になると経験に言語の色付けがなされて感覚の純粋性が阻害されたり等々)。ただし、すべて自分で発見していくというのは経験上あまりにも効率が悪すぎる、ということで勉強半分手を動かすこと半分という、比較的穏当な結論に落ち着くのであった。


by zelan | 2019-01-29 14:56 | 美術について