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原初のキス

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カテゴリ:アレクサンダー・テクニーク( 6 )


2019年 10月 06日

噛み応え

アレクサンダー・テクニークの創始者の、 F.M.アレクサンダーは次のようなことを言ったそうだ。
 
If I breathe as I understand breathing, I am doing something wrong.

噛み応えのある言葉・・。ちょっと変形して色々なことに使えそうだ。美についての自分の理解に基づいて美しいものを作ろうとしても、そうは問屋が卸さない、とかね。


by zelan | 2019-10-06 13:31 | アレクサンダー・テクニーク
2019年 09月 30日

実は遊んでる

自分で直接聞いたのだったか他の方から又聞きしたのか忘れてしまったが、ワシントン大学で演劇パフォーマンスの向上を教えている著名なアレクサンダー・テクニーク教師のキャシー・マデンが、クラスで「最近はなにで遊んでる?」としょっぱな生徒に質問したのが面白い。

こう聞かれると、多少ヤなことや、こだわってる割にうまくいってなくてもんもんとしていることなどもどういう訳か、「自分、それで遊んでるんだな。」とちょっと楽しくなってくるような気がするのである。


by zelan | 2019-09-30 12:00 | アレクサンダー・テクニーク
2019年 09月 21日

幻の垂直線

少々忙しくて部屋の中がとっちらかってきた時、自分は全ての物品をできる限り水平か垂直にとりあえず並べるの術、を実行する。
そうすると斜線ばかり目に入るより明らかに落ち着いてくる。

恐らく体軸とかそういうことに関係があるんだろう。
体軸は、重力と対峙/適応したり、身体表現なんかだと体軸と重力は語り合ったりするものではないか、と推測するが、体軸に大きく関わるであろう構造体、例えば背骨に代表させるなら全然「まっすぐ」じゃなく曲がっている。でも体軸っていうのは日頃はすんなりとほぼ真っ直ぐの感じがする訳だ。その幻の垂直線に自分が今見てるものを沿わせると、気分がいいのである。
以前勉強していた小笠原流礼法では、歩きなが方向を変えるときはゆるっとした円を描かず踵を直角に巡らして真四角に曲がる。そういう時もキリッとした心持ちになったっけ。

そういえば、昔アレクサンダーテクニークのレッスンをしてもらっていた舞踏家のイムレ・トルマンというスイスの人が~この人は大野一雄に師事していた~「我々は軸の周りを回っている」と言った。自分の中だけに仮想の垂直線を持っていると感じるより、こちらの方が随分と洗練された感覚であり理解であって、とても美しく感じる言葉である。



by zelan | 2019-09-21 15:43 | アレクサンダー・テクニーク
2019年 08月 31日

なるほど・・・

とてもマニアックな投稿であることは承知しつつも、欧米で100年の歴史ある姿勢と動きの改善技法アレクサンダーテクニークの学校BodyChanceのメルマガにあった以下の文に然りと思ったので、引用させて頂く。

「英語の責任という言葉をよく見ると、response(反応)とability(能力)という言葉で成り立っています。英語の責任とは反応する能力であることがわかります。人には、ストレスを感じる状況に対して建設的に反応する能力が備わっています。姿勢とは知性に関わるものであり、特定の位置に固定することではありません。」

あー本日もあれやこれやのことにおいて、やってくる刺激に何も知性を使わずバカみたいに習慣的に反応してしまったよ・・・。人類という知性体に与えられた「責任」を果たすのは容易ではないが、その思いがまた刺激になり凹むという反応が生じるとすればこれまた単なる習慣に従っている訳で、「気づいてよかった、明日から頑張ろう!」、と、最低でもこれくらいは反応をガイドしたいところ。


by zelan | 2019-08-31 22:46 | アレクサンダー・テクニーク
2019年 08月 11日

本日ハッとしたこと

自分はしょっちゅう色々なことに驚いているのだが、今日非常に驚いたことがあった。午前中アレクサンダー・テクニーク関係の本を読んでいて、胸のあたりの構造の説明の所で、自分の肋骨に関するイメージが事実とは似ても似つかない、殆どコメディーというかホラーというかなものであったことに気づいたのである。

自分は肋骨に筋肉がついていることを完全に忘れていた。

その割に平気でスペアリブなんか食べてるところを見ると、頭ではわかっているんだけれども、いつのまにか心の中で、まぎれもないこの自分の肋骨が、肉には接しているもののスルスルとハダカの骨としてその上を勝手に動いている、あるいは近くの筋肉が親切にも作ってくれている浅いミゾ?の上を体の動きにつれて適当に滑走している、的な・・・そうしたイメージを持っていたのである。もしかしたらむしろ最初にそういう身体的な感覚があってこっち方面にイメージを増強してきたのかもしれない。

ところで、単に「イメージ」って言葉を聞くと、それは例えばアートなんかでは称揚されてるようなもののような気がする。でも私個人としてはイメージに対してはしかるべく注意を払いたい。それは勝手に暴走し、ありもしない現実(感)を作ることになりかねない。そうして結局そういうことは、アートにおいてもあまりいいことではないのではないかと思っているのである。


by zelan | 2019-08-11 22:04 | アレクサンダー・テクニーク
2019年 02月 21日

やる気雑感

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絵を創り始める時などやるぞーという気分が高まってなんだかリア充な感じがすることがあるものだ。
しかし最近思うのはこのやるぞっていう気分、本当に必要なのかということ・・。頭主導気分と体主導気分というものがあるとすればこれは明らかに前者であって、体からしてみたら単に少々あたふたして緊張が高まってるだけでもっと落ち着いてやってくれよという感じなのでは?

思い出すのはアレクサンダーテクニークという、心身両面から姿勢や動きの改善を図るシブい身体技法の創始者 F.M. アレクサンダーが、「宗教心も筋緊張の一種のパターンに過ぎない」という主旨のことを言ったことだ。やるぞーという気分に伴うリア充感、その背後にあるであろう筋肉及び心理面の昂ぶりは、作画に対して本当に完璧にワークしてるのかむしろちょっとした無駄なのか、考えたり感じたりしてみてもいいのではないかと自分は思っている。



by zelan | 2019-02-21 11:59 | アレクサンダー・テクニーク