原初のキス

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2018年 12月 12日

理由

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なぜものを創るのか、という理由を自らに問えば、それは表現するためというよりは理解するためである。

何かを「表現しよう」ということはつまり、「何を」表現しようとするかがわかっていないといけないが、いかに単純に見えるものであれそれがわかった!と言える程に単純であるということはほぼないのだから。

結局自分が何を表現しようとしているのかなんて、その何かに興味を持ってから後に、彫刻みたいにそれを彫っていって違う感じがしたりしっくりきたりというのを繰り返しながらより確かな筋を見つけてそれが何だったか、何になりうるのかを気づいていく過程を通してしか理解できない。狙って撃つ、と言う程に単純ではないのである。

こう書くと、やっぱりアートとビジネスって違うなーという感想が出そうな一方、似たところもある、と見ることもできるかも。

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# by zelan | 2018-12-12 22:38
2018年 12月 12日

「初めてのコラージュ」 目黒学園カルチャースクール 初回1月9日

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2019年1月より、目黒駅至近の目黒学園カルチャースクールにて初心者の方向けコラージュ制作の連続講座を持つ予定です。
第2第4水曜日15:30 – 17:00(各期全6回)
初回/体験会は、1月9日(水)です。

コラージュは写実描写など鍛錬を必要とする技術を直接的には必要とせずとても取り組みやすい一方、人間の意識・無意識や感覚の特徴、自分自身の美的関心や内心のイメージのありようについての理解を素早く深めていくことのできる技法です。

詳細、お申込みは以下リンクよりご覧ください。

目黒学園カルチャースクールトップ
講座詳細







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# by zelan | 2018-12-12 17:07
2018年 12月 12日

巧妙なる悪癖システム

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夜更かしをやめたいのだが、この悪癖を折伏するのに苦労している。

思うに寝るのが遅くなってしまうことについて、私は自分の生活を極めて巧妙に、「システム化」しかつその運営に習熟しているらしいのである。
巧妙というのはぼーっとしているとほとんどそのシステムにもオペレーションにも意識が向かないくらい自然にスムーズに連続的に夜更かしに向けてことが運ばれてしまうということ。
恐らく夕食の時間やその後の過ごし方、入浴の時間等、トリガーになる行動だの関連の心理的な要因、加えて住居環境等々が関係している。それを本気で分析しようとすると、無意識の意識化みたいになってそれなりに面白いだろうが、でもそうした分析で夜更かしが必ずやめられるとも限らない気がする。

美術なんかでも個々人がどうしても犯しがちな過ち(自分が達成したいことからのズレ)というのはある。
決してそっちに寄っていきたくないのにどうしても寄っていってしまう。それもまた、恐らくシステム化されているのである。

もとい、そのシステムの究極の理解を待っているといつまでたっても早く寝られるようにはならないのでは、という直観が自分にはある。
ということで12月の頭に机の前に、「12時前就寝」と書いてその後に白い丸が8個並んだ紙を貼った。
今月は少なくとも週2回程は早めに寝ようと思い、それを記録するためである。
システムの分析はともかく、12時ぎりぎりになってもいいからベッドに飛び込むという、その習慣だけ作ればいいのでは、と思って試みている次第。

今のところ一つの丸に鉛筆でチェックが入っているだけなのがやや心もとないが(それに未だこんなに遅くにブログを書いているし・・)、一応今月中はこの仮説検証に励みたいと思う。







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# by zelan | 2018-12-12 00:22
2018年 12月 10日

コラージュと流体

ごく最近思い至ったのが、コラージュとは一種の流体技法であるということである。
糊で貼り付ける前なら、モチーフはいくらでも動かせる。描写的な技法が一瞬一瞬動作の軌跡を画面に定着させていくのと根本的に原理が違う。

私は美術をコラージュから始めてその後主には絵具を使った混合技法で、かつ絵具の流動体としてのふるまいを定着させるという関心で創ってきたが、どうしてコラージュからこっちに移行してきたか、自分でも今一つ理解できなかった。基本的には印刷物を使うストレートなコラージュは大きさやマチエール(質感)にある程度制約があり、その制約を逃れ、より自由を求めようとしたというのが仮説だったけれど、これも間違いでないにせよ実は流体への関心、という同じ軸の周りを回っているとも言える。

これに関し、世阿弥の風姿花伝の、初心忘るべからずという言葉を思い出す。私はこれを、始めにやっていたことは忘れなくてもいいよ、という風に解釈しているのであって、人間は変わるけれども変わらない、何かを捨てたり忘れたり、超克したりしようとしたりするが、元の自分には常に今の自分の予見があり、今の自分には常に過去の自分の名残がある。この名残はしぶとくて、種のようなものでもあり、また次の芽をふくときが場合によってはあるのではないかと、自分は期待しているのである。



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# by zelan | 2018-12-10 22:01
2018年 12月 07日

甘いマスク

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昨日たまたまテレビを見ていたら出てきた、「甘いマスク」という言葉が気になってしょうがないのである。
これもまた有閑マダムよろしく少々死語化しているが、いつ頃言われ始めたのか、最初に誰が言ったのか、なぜ男性にしか使わないのか(特にこれ、不思議・・・)。なんで「マスク」という普段あまり使わない単語が突然登場するのか、等々多々の疑問が生ずる。

昨今、ネットで調べたら一発で答えが明らかになっちゃったりするものだが、そういうことばっかやってると思考能力が劣化しそうで少し嫌だ。とはいえ、例えば絵の研鑽をする上で本件について真剣に仮説を組み立てることが役立つとも思えないので、ナゾだなあ・・・と思うにとどめておこう。

ちなみに甘いマスクというと反射的に若かりし頃の「アラン・ドロン」が思い浮かぶ私も大変に昭和的である。


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# by zelan | 2018-12-07 10:45
2018年 12月 06日

コラージュと目線

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1月からカルチャースクールでコラージュの講座を持つ予定なので、コラージュの技法や制作心理について振り返りを兼ねてこのブログでも記事を書いていこうと思う。その第一回として以前の記事を再録。

2009年12月16日 可能性

コラージュは眼と脳に対する刺激を創るものだから、画面には常にある程度刺激が溢れており、制作中の画面をじっと見ているとその刺激に慣れすぎてわからなくなる。
だから見てるような見てないような横目で見る感じで創るのだ。画面そのものを見ている時間より、そこに置く素材を見て選んでいる時間を意識的に長くしたりもする。また、画面を見ているときですら、視覚に入り込むというよりからだの軸の感じはどうかとか画面から音が聴こえるか否か(聴こえない方が私はいい)など、他の感覚に注意を注ぐようにする。
見つめすぎないというこれは結構何年もやってから気づくようなノウハウだけど、でも、じいっと見ても感覚さえ冴えていれば、むしろいいものが創れるかもしれない、という可能性もまた、頭のすみに置いておくことにする。

・・・うー、第一回にしてはマニアックすぎるかもしれない(その証拠に自分自身このいわゆるノウハウは忘れていた)。
次回は「コラージュとハサミ」とか、もう少しストレートにいってみよう。

(図像 是蘭「開城の兆し」2009 コラージュ)

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# by zelan | 2018-12-06 23:14
2018年 12月 04日

知人の名言再び

2016年 8月 15日に以下のような記事を書いた。

絵を描く知人から今日聞いた言葉:

「絵は、8割くらいまで<どう描くか>に腐心し、
あとのちょっとのところで<何を描くか>に集中すればいいのである。」

これは名言である可能性が高い。なぜならば、世の中の常識の逆をはっているからである。

やはりこの言葉は謎めいている。
結局自分が「何」を描いて(やって)いるかって、かなり後になって色んなデータや考えが積みあがってきてからしかはっきりとはわからないのではないか。

かな・・・。人により解釈が異なってくるかもしれない。

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# by zelan | 2018-12-04 12:18
2018年 12月 03日

有閑マダム考

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「有閑マダム」という言葉には心なし侮蔑的ニュアンスが伴っているが、今にして思えば自分は幼少の頃、侮蔑どころか無意識にイメージしていた理想的「職業」(?)が、まさにこの有閑マダムなのであった。

「有閑」でありその上「マダム」なら、文化的な物品/事業にふんだんな消費が可能で、自らの感覚を楽しませることはもちろん、結果として芸術家のパトロナージュの主要なプレイヤーになれる条件が揃っている。子供の頃の夢の通り有閑マダムになれていてかつ実行力があったら、全日本有閑マダム連合及びその芸術支援プロジェクト助成金付きを立ち上げたいくらいだ。(それやるとヒマじゃなくなっちゃうけど。)

でも有閑マダムという言葉自体、最近はほぼ死語の感じ。
喜ぶべき変化だが女性の社会進出や、技術革新も影響しているはず。スマホに接している時間の平均が50才以上の年代においてすら3時間超という統計を最近見て正直びっくりしたが、なんかもう(忙しい人はもちろんハナから無理でも、本当はヒマな人も)「ヒマだなあ~・・・」と所在なげに呟く精神の自由がなくなりつつある気がする。(そもそも論から言えばヒマだからそんなに長くスマホに滞留するのでは、という仮説も成り立つ。しかしさほどのスマホユーザーでない自分にはそういう仮説を口にする権利はないのである。)

もとい、もうこうなったら、
「これから15分、完全にヒマにするぞ~」と気合いを入れてがんばる位がおもしろそうなのであって、今度ぜひやってみようと思う。

心なしか似ている感じの記事:


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# by zelan | 2018-12-03 21:52
2018年 11月 25日

あえて豊かさにNoを言う

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基本的に自分の関心が高い作品群というのは俳句か寿司のようなものである。関心が高いだけあって自分自身もなるべくそのようなものを創りたいと志している。「戦争と平和」みたいな長い小説や、ヌーベルじゃないフレンチというような嗜好ではそもそもないのである。

ところが、俳句を目指して創り始め、五・七・五でまとまらずどかどか要素や絵具の層を足して制作過程や見かけが中編小説めいてくることが別段珍しくもない。本質的な望みやアイデンティティからずれているがために当然のことながら、最終的に一定のレベルを確保しようとする上で、えらく苦労する。

マチエール(質感)が足しあがってくるので完全に否定する必要はない。必ず失敗するという訳でもない。かのピカソだって、「何かを創ろうとすると別のものになっちゃうんだよね・・」という趣旨のことを確か言っていたし、寿司を握るつもりで鴨のテリーヌ、くるみペーストとあぶりキノコのソースを添えて・・・になってもいいではないかという観点から、これまでこうしたなりゆきについて自身を納得させてきた。ただいつもなんとなく、違和感があったのである。

そして今日ついに、もっとずっと早く気づいていても全然不思議ではないこの違和感の正体に気づいた。
つまり、なりゆきの中で苦労して、その中で色んなことも発見しつつ作品を仕上げるということはそれが意識的にしたいならばもちろんあってもいいことだけれど、このプロセスにはまった際においては自分の最も志向している「俳句」の訓練には少なくともなってない、ということである。ホームランを打たんとして平均台によじ登っているの感がある。

五・七・五だからこそ俳句になる。今日はなりゆき上八・九・二とか一・二十七・六・七十三でいってみるか、というオプションに我々は惑わされる。実体はもっていかれている癖に、ぼーっとしているとついそちらの方が自由で豊かに見えるからである。


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# by zelan | 2018-11-25 00:09
2018年 11月 25日

泳ぐ

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泳ぐという感覚は大切だ。
それはものごとの間にあるということ。

自分はカナヅチなんだけど、コンセプチュアルにはどっちの岸にも寄らず、何にもつかまらず、なるべく泳いでいたいと思う。

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# by zelan | 2018-11-25 00:04