2017年 04月 22日

ルーチンの心理的攻略法

ご多聞に漏れず、定常的管理業務や作業的業務があまり好きではない。
人は少しムリめのことを好むらしいのだが、いわゆるルーチンはやればできるのがわかっているため、簡単すぎると思って脳が退屈してしまい、今一つやる気 がでないのである。ただこの「少し」というところが重要で、難しすぎてもいけない。完全にできる部分を半分位孕みつつも、あとの半分がチャレンジング、という事柄が人を燃えさせるとのことだ。

そこで私は考えた、というか、無意識にやっている内に気がついた。ならば作業の成果物自体が同じでも、ちょっとだけムリめ方面にプロセスのハードルを上げればよい。

例えば請求書を書く。まず、ほんの少しの回り道もせず目的のフォームホルダーにたどり着く。日付けの書き換えや内容の記述において、タイプミスして訂正、などという不注意かつムダな動作は皆無。文章は簡潔至極、フォントの隅々に渡るまで神経を行き渡らせる。もちろん明鏡止水の心持ちで座禅中のごとく姿勢も一切崩れない。

・・・ハードルを上げ過ぎた。ということでこの中の大体3コ位をターゲットに、次のを書く、といったように。

目指したムリめにいきなりトライすることもともかく、この「ムリめレベルを調整する」、ということ自体がおもしろく、自分としては一挙にルーチンの苦痛感が崩壊していい手であった。なんかこれ、やる気の調整に色々と使えそう。ちなみにこのムリめレベル調整には、時間軸も使える。作業時間半分、みたいなこと。もし作業内容自体を変えないとすれば、前述のちょっと瞑想ぽい方法よりどちらかと言えばスポーツみたいになる。

でも、こんなことおもしろいと思うなんて自分くらいかしら。汎用性という点においては若干疑問が残る・・・。




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# by zelan | 2017-04-22 11:03
2017年 04月 20日

視覚の易刺激性

「意を決してとうとう、橋渡っちゃったんだよね~。」
「どこの橋?」
「あ、間違った。川! ルビコンの・・・。」

と、いう会話を興奮気味に知人としている私が何のことを言っていたかというと、近所にトランクルームを借りたのである。ルビコンを持ちだした理由は、少なからぬ固定費が毎月ダダ漏れなのに、詰めとくだけでは1円の利益も生まないから。それで暫く迷っていた。
ともあれ、目的は、「視覚資源の拡大」である。大型の額縁とか描きかけのパネルやカンヴァス、必ずしもいつもあるいはすぐに使う訳ではない画材等々が大量に置いてあると部屋の中を動いたり掃除したりするのが多少不便になるが、それはさほどの実害ではなく、実害は部屋よりも脳のスペースを取られるということ。視覚に入ると考えたりそれまで考えてたことが干渉されたりする、自分は視覚の易刺激性が高いのである。

「でもさ、そういう性格を直した方がいいんぢゃない、キリないよ・・・。」と私がまだ検討中だった頃に件の知人に言われた。それはもう絶対に真実だ、と私の理性は言っている。アインシュタインを筆頭に、世の中で大事を成した人の机や部屋は豪勢に散らかってるというではないか、目に入るものごときで感覚や感情がふらついててどうする・・・(だからといって自分はそこまでの偉業を成そうとは思ってないけれども)。

という罪悪感があるせいか、ゴミ屋敷に暮らす(暮らせる)人々のことがかなり気になる。
知り合いの一人などは、「私がためるのは無機物のゴミの系統で有機物ではないから清潔」みたいなことを自慢気に言っていて、そういう分類軸を自分で打ち立てるのはすごいと思った。
前にこのブログでも書いたゴミの話はこちら です。

ともあれ、本当にキリがないのか、少しは落ち着いていくのかはこれからの実験。


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# by zelan | 2017-04-20 16:32
2017年 04月 18日

かなえちゃいけない夢ばかり

しばらく前にあるお笑い芸人の方が、子供に対して「必ず夢は叶う」と教えるのは現実を誤認するのでよろしくないというような意見を述べられたことについてTVで話題になっていた。
私の考えでは、夢は叶う、という言い方をする際大抵は、言ってる当人がよほどニューエイジ方面の方でなければ、しかるべく努力を続けしかもあきらめなければ、という条件が言外にこめられている気がする。だとすればどちらかと言えば自分は「夢は叶う(ことが多い、論理的に)」派である。ソニーのファウンダーの井深大氏にも、「成功のコツは成功するまでやること」という言葉があった。

実は個人的には、「夢なんて叶っちゃったら結構困ると思ってる派」を立ち上げたい。
本質的に欲深い人類というものの持つ夢とは即ち夢という名前をまとった欲であることが結構ある。ならば夢は叶うか叶わないかより、どういう「夢」なのかが真に重要なのである。叶ったら自分のためにも人のためにもなる夢なのかどうかをまずすごく気にした方がいいような気がする。

叶えちゃいけない夢をものすごい勢いで強烈な努力とブレなさと人をも巻き込む統率力で叶えちゃってる人々が政治だろうが三面記事だろうがたっくさんいる。夢即ち欲になりがちなことに関して言えば、叶わない方がいい夢がかなり幅を利かせているな~コワ!、というのが、最近の自分の感想。

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# by zelan | 2017-04-18 22:50
2017年 04月 17日

信じることの微妙な位相

世の中には何々を信じろという言説が少なからずある。その大抵の事案について、ふ~ん、と冷たい目をしている自分がいる。何かを信じろと言っている割に、その根拠が至極希薄なことが大半だからだ。人間は本質的に素晴らしい存在なんだとかいう言い方がままあるが、元々はさほど素晴らしくもなくて素晴らしい存在にしていく責任が人にはあるのではないか、というのが私の考えだ。

一方多少似た言い方なんだけど自分の美術の先生に「作家たるもの根拠のない自信を持ってないといけない」と言われた時はすぐさま納得した。

なぜならこれは自信を持つというその選択をするかしないかの意思の問題で(だって根拠に依拠しないのだから)、それがつまりは戦略的(そして名声を成したこの先生にとって恐らく経験的)にはワークするのだ、とおっしゃっているからである。


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# by zelan | 2017-04-17 23:22
2017年 04月 17日

あくび

診察室に入ってきた女性が、「最近、夕方になるとあくびが連発して何十分も止まらないんです。」と訴える。
「睡眠不足なんじゃないんですか。」と医者。
「寝てます。」
「どれ位?」
「このところ1時半に寝て起きるのは8時です。」
「それ結構足りませんけど。もっと寝てください。」
「そうですか。わかりました。」
帰りかけた女性はドアの所で踵を返し、
「あのー、あくびってどんどん出るとき、そのまましててもいいんでしょうか。我慢しなくていいですか。」と問う。
「脳が若干酸欠になってる状態なので、したければしてください。」
「そうなんですね。わかりました。」

という会話を行きつけの漢方医のところで交わした話を友達にしたら、あきれられた。
つまりこの女性というのは私である。こちらとしては東洋医学はあくびについても何か驚くべき見解を持っていて、それを私に教えてくれるのではないかと期待していた。また、咳で体力を失うと同様あくびもしすぎはいけないのではと心配していたのである。

こんな風に神経質を絵に描いたような自分だが、もはや宿痾といっていい程のアレルギー性鼻炎が最近多少悪化して耳鼻科で薬をもらってきても、まだそれを一回も飲んでない。西洋薬に対する不信感もさることながら、「自力でなんとかなるのではないか・・」という探求心がある。そしてなんとかなりつつある。

あくび談義にしても買って飲まない薬にしても、私がコンサルであればこのあたりの精神的時間的金銭的ムダをリストラすることを真剣に勧めたいところだ。でもやり方がよくわからない。それにもしかしたら、こういう性格上の(消費)エネルギーは何か別の価値あることに転換しうる可能性を秘めているのではないか、と、少しだけ思っているのである。(それを期待しつつ、既に数十年が経過。)








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# by zelan | 2017-04-17 13:47
2017年 04月 16日

モテない理由

先日読んだビジネス書にロジカル・シンキングの限界を記していた箇所があり、そこでモテないことに悩む男性がなぜモテないのをロジック・ツリーで分析するという例があった。
推察の通り、これはもう大変に複雑な要因が掘れば掘る程深く際限なく広がっていく訳であって、自分がこの人だったらやっている内に絶望する。

全く笑えないのが自分もかなりこれに似たロジックツリー的分析を不用意にしてしまい、枝に絡めとられて何が幹だったかそもそも何が目的だったかがわからなくなるときが多いことだ。ロジック・ツリーには原因を探るWHYツリーや解決策を探すHOWツリー、要素分解するWHATツリーなどがあるようだが、個人的にはWHYツリーは殆ど使わず(これはこれで不思議)、もっぱらHOWツリーやWHATツリーが多い。こういうテーマのものをこういう技法で創らねば、などという制作のアイデアなどもこれらの類だが、化け猫みたいに9回生き返っても創りきらない位たまっており、しかも日々増え続けていて、この中の枝と小枝を5本ばかり選んでやれば人生それで充分だと思うのである。
どちらかと言えば頭の使い方が細分化かつ発散化していくのでこういうツールは向いてないかもしれない。

ところでこれまで自分が個人的に知っている立派な仕事をしている経営者の方々には皆共通点があった。
口を揃えて、「基本の状況が確認できたらやることは2つ、3つ、あるいはひとつまですぐに絞る。それ以上の選択肢は考えない。間違う可能性はゼロではないがそれでもかまわない。」というのである。どうやって絞るんですか、と問うと「直感で」とのことだ。直観はどこから出てくるんでしょうね、となぜなぜ5回のようなことを更につっこむと、「経験から」という。

つまり木じゃなくて機を見てすぐに動いて経験値を積んでいたのである。


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# by zelan | 2017-04-16 23:13
2017年 04月 13日

笑える

アレルギー性鼻炎である。今年はかなりやられております。
で、ネットで対策など検索していると、「アレルギー性鼻炎で苦しむ女性」「アレルギー性鼻炎で苦しむ男性」の写真素材、というのがわんさかヒットする。画像サイズの大きさに応じ1枚いくら、などと値付けされてる。

そんなものが素材化して商売になっていたとは。知らない内に社会に貢献して(か、利用されて)いたよ・・・。
と、力なく笑っている自分。笑うのは薬になるらしいので、期待してみよう。


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# by zelan | 2017-04-13 20:24
2017年 04月 09日

夜の頭とパンと寿司

パンと寿司は、いずれもかなり世界に広まっている一方、卒倒するほどおいしいものはヨーロッパと日本にほぼ完全に集中しているという共通点がある。味に関して言えば、あまりグローバル化していないようだ(異論・例外はあるかもしれないが、世界を股にかけている知人もそうだと言っていた)。素材がシンプルなことが逆にこの非グローバル化体質、といったものに関係しているかもしれない。う~ん、でもどうして・・またその他にも、何か色々と文化的・生理的複数要因が複雑に絡みあってるような気もする。

ところで自分の多々ある悪癖のひとつに、朝起きてもすぐさまベッドから出ず数分から十数分ぐだぐだとそこに留まりどうでもいいようなことを考える、というのがある。昨日あったことを思い出したり、某国の為政者の行状について全世界的影響からすればどう対応策を展開していくのがいいのか(政治家ではないためなんの影響力もないのに)様々思いめぐらしたりと、ムダなことこの上ない。
かねてからこの時間を最小化したいという希望があった。しかし最近、朝がばっと起き上がるのはあまり体によろしくないということを聞いて、ではこの時間をどう有効利用するのか、と考え始めた訳である。で、編み出したのがこの答え。

寝る前に自分にお題を出しておく。その答えを起きたらベッドの中で確かめる。

キテレツなことを言っているようだが、脳科学的には正しいらしい。寝ている間は脳の配線が色々と交錯し結構クリエイティブな状態とのことで、これを利用しない手はない。確かに自分の経験によれば、問いが何であれ「朝答えがでる」確率は相当高く、この有料ソフトやサービスを使うべきか、とかこの行き詰っている絵をどう展開するか、などは比較的ぱっと答えがでる。観察してみると、単純な二択的事案よりも、むしろ色んな要素が絡み合っている問への解決案や、それどころか問そものがこれでいいのか的な難しい状況にヒントが得られたりする。朝の答え出しにとって、問題の関連要素が多いか少ないかとか、問題そのものが正確精密に定義されているかどうかとかはあまり関係ないらしい。つまり昼間起きているときうんうんうなって苦労しても進まないような問題も得意。

ということでパンと寿司の反グローバル問題を寝る前の質問にしてみようと思う。その前に片づけたい問題はこれ。

絵の制作においてどうして同じような過ちは何万回も繰り返せるのに、うまくいったものの再生は非常に難しいのか。

この現象に際してはなぜかトルストイの「幸福な家庭は一様だが不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」とかいう言葉を思い出してしまうが、大体この連想って正しいのかしら。だとしたらどういう繋がりで思い出すのか。これも寝てる間の頭に聞いてみよう。




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# by zelan | 2017-04-09 17:19
2017年 04月 06日

花見と証明

人に誘われなければ自ら花見を組織したりひとりで花を見に敢えて出かける柄ではないのだが、用事があった際に近所の桜の名所を通りかかった。人々の中を歩く内、何年か前の春やはり桜の季節にここを通った時よりずっと、花がきれいなことに気づく。すばやく探偵モードに切り替わった私は観察を始めたが、咲きっぷりの程度や天気などの諸条件が前回と大きく異ならないことを確認した後に、あっさりなぜ花が美しいかの答えがでたのである。

宴会をやってない。

ほどなく目に入った立て看板に、確かに「宴会禁止」の文字があった。宴会が禁止されたが故に樹の下で楽しそうにお弁当などを広げ歓談している方々がおらず、皆ただ歩いてるだけなので自分の認知リソースがその分桜に多く割り振られ、その美しさに関する感受が高まっていたのだ。
大体宴会のヴィジュアルは色んな敷物や食べ物の色があったりアルコールが入って老若男女の声も大きく、当方の意識への負荷がかなり大きいのである。やっぱりこの場合宴会が「ない」ってすごい威力だなあ・・・花自体はおそらくそんな変わらないのに、と先日書いたブログの記事など思い出し、自分の発見に酔いしれてしまった。

そのためろくに花を愛でることもなく、満開の桜の下をぼーっと通り過ぎてきてしまったのである。
悦に入ら「なければ」よかった・・と帰ってきて思った。ここでも自分の説が証明された。




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# by zelan | 2017-04-06 11:24
2017年 04月 05日

くもさんの思い出

数年前の春先、部屋の中で一匹の蜘蛛をよく見るようになった。蜘蛛といえば何も修飾語を連ねなくとも誰でも思い浮かべるであろう、足を入れても7,8ミリ位の黒味がかった灰色で少し産毛が生えてるっぽいアレである。
1週間程特に午前中確実に現れ、その内理解したのが、「距離を詰めてきている」ということであった。最初は遠くの床の方にいたのに、次の日は座っている近くの壁にいて、やがて仕事机の上にのっかってきた。そして更にPCのモニターの縁でじっとしているのを見ると、これはもう種族を超えて私のことが大好きとしか思えない。

虫は好きではないが多少苦手位で殺生する方ではないのでそのままにしていたら、ある日とうとうソファでまったりしているときに自分の腕の上にいて、びっくりして反射的に振り落としてしまった。蜘蛛は1メートル程離れた床の上に落ち、気絶したのか暫くじっとしていたがその内動きだしてどこかに行った。心なしかとぼとぼしているように見えた。案の定それから見なくなって、こちらに悪気はなかったものの傷心になっちゃったのかしら・・、と心にひっかかっていた。数日たって、前程の距離感ではないがまたその蜘蛛を見たときは安心した。蜘蛛の寿命はどれ位か知らないが、そのうち出てこなくなってしまった。

ところで、私は人間にあまり興味がない。何かのついでにそういう話題になったとき、大抵の場合「じゃ、何に興味があるんですか」と問い返され、「真理とか・・・」と答えるので先方は爆笑ないし絶句という反応になる。爆笑した人には悪いが、冗談でなく本音である。真理愛はともかくとして、いずれにせよ人間をあまり特別視するつもりがなく、つまり生命体という次元においては他のものと区別があるということが感覚的論理的に理解できない。でも牛や豚など平気で食べているではないかと言われればそれまでだが、そこのところは普段は意識からシャットアウトしているのである(つまり、そうしないとやってられないほど、基本的には平等視というスタンスを取っている)。そして生きているものはすべからく、なるべく幸せであってほしいと思っている。幸せを求めない生き物は、いないからである。

自分の価値観を押しつけるつもりはないが、皆人間にもっと興味がなくなればいいのに、と思わないでもない。
うすく広く生命を見ていれば、少なくとも敢えて殺す側にはまわらないだろう。



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# by zelan | 2017-04-05 12:06