原初のキス

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2017年 05月 29日

技を見る

超老舗番組の「笑点」を見ても、あまり笑うということがないのだが(なんだか自分の笑うポイントをうまく外してくれている)、この前ふと、そこで出ている方々のやることなすことの全てが、技の固まりであることに気づいた。落語家さんだから考えてみたら当たり前だが、発声・抑揚、目線、立ち居振る舞い、等々、明確にあるいは微妙に、普通の人とは違う。

特に気に入ったのは、物腰に悪い意味の「真剣」とか「緊張」とかいう情緒が微塵も混じらない、独特な抜け感。姿勢に特徴があるような気もする。ああいうのも習うのかしら・・・。


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# by zelan | 2017-05-29 17:04
2017年 05月 28日

良くしようとすると、悪くなる

良くしようとすると、えてして悪くなることが多い。それは自分の体験から、はっきりと言える。
例えば夜更かし習慣を改めようとする、数日頑張って早く寝るのだが、たまたま夜更かししてしまったその後急速に、改めようとしたとき以上に寝るのが遅くなってしまうのである。

多分脳の機能に関わっているんだろうと思ってきたが、最近読んだ本の中に、人は罪悪感を感じるとその行為が非常に価値あるものだと誤認してしまう、とあってなるほどと思った。元々の習慣だから変えようと思っても失敗することがある、その失敗により感じる罪悪感が、変えようとしていた行為の価値を押し上げてしまい、ますます変えづらくなるのだ。

いったいどうすればいいんだ・・なかなか難しい問題だが、自分の仮説としてはこれに対抗するため、「感情と行動を切り離す」というのが戦術になる。例えば、早く寝る予定だったのに本を読みたくなったらその瞬間を察知して、むしろそれをきっかけにしてすたすたベッドに歩いていくとか・・。根性論に見えて根性論とは別。根性にはやだけど頑張るという感情的側面が紛れ込む。それが発生するあるいは発生させざるをえなくなる前に、行動するのである。

自分が目指す成果に逆行する感情には気をつけておく方がいい。多くの場合、人は感情には負けてしまうものだから。



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# by zelan | 2017-05-28 10:23
2017年 05月 27日

Doing/Being

画面など、つい「ここをどうしようか」と思って見てしまうが、全体をどうするか、そしてその全体との関係において部分の攻めざまを考える方がワークする。

「自然は部分には働かない」、とアレクサンダー・テクニークという身体技法を創始したF.M.アレクサンダーという人が言ったと聞いた。全体から部分を切り離して扱っても、その部分は多かれ少なかれ機能不全に陥るということだと思う。

なぜ今これを書いているかと言うと、先日絵を描いていてふと、今全体が見えている、その一瞬において、個々の部分も全体とつながりをもった一部として感じられている、と認識したのだ。全体を見るということはかなり基本的なことで、そんなことはずーっと昔から知ってはいたし努力もしてきたけれど、やっている(Doing)、のではなくそうなっている(Being)、と感じたのは、その時がなぜか初めてだったのである。



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# by zelan | 2017-05-27 11:14
2017年 05月 26日

傘と自転車の現代美術的様相

台風の翌朝、道に転がっている骨の折れた傘、下町の廃屋脇に置き去られて数年が経過し、つる草なんかも全身にからまっちゃってる放置自転車などが非常に現代彫刻的相貌を帯びていることを、知っている人は知ってるだろう。なんでこれがゲージュツぽいかというと、あるべき場所、所有されるべき人から完全に離脱し、元の外形的有様からもえらく逸れてしまっており、後者においては特に自然の采配によって人為を離れたパワーがそれを実現せしめているからである。

翻って本物の芸術の方も、優れた作品というのは人が創ったり、創りうるようには見えない。人が創るのに人が創ったように見えないこと。これがごく単純に言えば、芸術の条件かつ課題になる。

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# by zelan | 2017-05-26 18:25
2017年 05月 25日

サメの名前

メガマウスというサメが話題だが、「恰好が(PCの)マウスに酷似しているから」そういう名前で呼ばれているのだと、信じ込んでいた。(実際は口が大きいから)。
今朝テレビを見ていてその誤りに気づき、なんだかくやしかったので1976年に発見されたこのサメと、マウスの発明のどっちが早いか調べたら、マウスの原型は60年代にできている。だから論理的には、「PCマウスに似ている」という理由でメガマウスという通称を得ていてもよかったのだ、と個人的に溜飲を下げた(但し、サメが発見された70年代のマウスはまだあんなに丸っこくなかったか)。

しかし未だに私みたいに誤解している人も多いのぢゃないかしら・・・。現代日本においては少なくとも、マウスといえば口でなく例のマウスだ。
自然が消えてきたことのささやかな結果のひとつかもしれない。

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# by zelan | 2017-05-25 08:28
2017年 05月 24日

行動だけを、制御する

今日ふと、行動だけを制御したいという欲望を明確に意識する。それくらい行動が感情や感覚に影響されるのが激しく、その時その瞬間に、最もするべき行動を選択することが難しいのである。

しかしこの「難しい」というのが実際何を意味しているかを、考える価値はある。
人は時に、本当にできないことではなくやりたくないことを、難しいというものだから。

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# by zelan | 2017-05-24 23:22
2017年 05月 23日

白身の味に驚くの巻

自分はこれまで卵の白身というものに特段の好感を抱いていなかった。
目玉焼きにしても、黄身が図とすれば間違いなく地であろうし、味も、がっつりコクのある黄身のいかにも脇役という感じだ。だし巻き卵にしたって黄身と混ざっても結局のところ全体として黄色くなってしまい、存在を主張できない。好感を持っていないというよりむしろ、眼中にないというか、意識の範疇にさほど入っていなかった、というところであった。

最近卵の黄身だけを使う料理が続いて白身を何個か分、フライパンで塩・胡椒だけして焼いてみてびっくりしてしまった。
黄身の味がむくつけき武士(もののふ)のようであるとすれば、こちらはお姫さまである。上品で繊細で、奥行きがあるものの押しつけがましくない。殊に食感が良くて、カリッとした外側に弾力のある中身の組み合わせが絶妙だ。

白身の味自体は変わらないのだから、目玉焼きから白身のみ分離されたことによりこちらの感覚の集中力があがったのであろう。

目玉焼きを食すというのは知らぬ間に、マルチタスクになっていたのだなあ・・・。でも今や白身のおいしさを知ったからには、黄身と白身のハーモニーを、改めて鑑賞する力が少しついているかもしれない。
今度目玉焼きを食べるときに、確かめてみよう。

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# by zelan | 2017-05-23 14:02
2017年 05月 22日

ギチ車庫雑感

時々車庫と車の幅が合っておらず、いやむしろめちゃめちゃ合ってしまっているというべきか、左右2センチ位しか隙間のない状態で車がぴっちりと入れてある家がある。知人が、「こういうのは外国では見ない、写真集にすればグローバルに売れる」と言う。

この光景を見ると、自分の頭にはいつも「神道」と「武道」という言葉が浮かぶ。神道につながるような、垂直性正面性といった美的心性及び身体感覚並びに修練が、必ずや関わっているに違いない。だからこれも、一種の文化であると思う。

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# by zelan | 2017-05-22 21:17
2017年 05月 21日

ご利益は半年後

パソコンを使うときのいわゆる「ショートカットキー」というものがある。
自分はコピペなどのごく基本的なもの以外はマウス派(「派」っていうとえらそうだが、特に何も工夫してない派という意味・・)だったのだが、ソフトの切り替えだとかChromeのタブの移動やクローズ、検索ボックスへの移動だったりそういうことどもについて、ここ半年で60個位なんとか覚えた。

なぜ数がわかるかと言うとリストにして見やすい所に貼ってあるから。
20個位までのうちはさほど便利になった気もせず、思い出したりリストのメンテをするのがめんどうで利益がよくわからなかったが、最近はマウスというものがいかに遅く、いかにストレスフルであったかがよくわかる程ラクになってきた。

なにか良さそうなことを始めてもすぐさまその利益が実感できるものはやはり少ない。
完全に個人的経験則にすぎないが、効果が大きいものほど、ミニマム半年はかかる。
つまり企図して始めることはすごくよいことなんだけど、それが本当にトクだったのを感じるまでにタイムラグがあるのである。
この間に必要なのは、施策に対する「信用」だ。自分は「信じる」という言葉が実証性に乏しい気がしてあまり好きではないのだが、とにかくじわじわと効果を確認しつつ頑張るにはなんらかの形で「信」という意識要素がないと、やっていられない。

ショートカット活用推進プロジェクトは一応軌道にのったとして、次は何を半年プロジェクトにしようかな・・。
「毎日運動」とか、・・・うーん、効果よりも何よりも、最初にまず「自分」が信用できない。


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# by zelan | 2017-05-21 14:13
2017年 05月 20日

タイ料理屋にて

打合せの後で疲れていたので、読書もせずにひとりタイ料理屋で料理の来るのを待っていた。
こういう時でも何か有意義なことができないかと考える、よく言えば前向き悪く言えばせちがらい自分である。
で、目を閉じて回りの音を聴いてみた。

おお、なんという多くの音があることか。人の話し声、何かの機械設備の動く音、厨房で炒め物をしている音等々・・・。
ぼーっと聴いていればそれはまとまって聞こえてくるのだけれど、上述のようにどんな音が混ざっているのか認識するにはひとつひとつ聴いていかないといけない。人間の意識や注意ってそういうものだ。はっきりとらえるにはシリーズで機能させるしかない。一方個々の事象(会話、機械の運転、料理など)は完全にパラレルに起こっているである。

パラレルに起こっていることをシリーズでしか認識できない、これは大いなる問題あるいは課題(チャレンジ)のもとになるぞ、と自分は確信した。

でもどう具体的に問題になる(なっている)のかな、そしてこの現象は美術にどう関わっていて、どうすれば「利用」していけるのかしらん・・・。

こういう宿題への答えこそ、脳へのお題にぴったりだ。
なので即座に発注した。

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# by zelan | 2017-05-20 11:41